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雨のち晴れ  作者: ありり
272/311

十年後の春⑤

夜遅く。

高層マンションのエントランスに黒い車が滑り込む。


エレベーターが最上階で静かに止まる。


扉が開くと、静かな廊下。

家の灯りだけが柔らかく漏れていた。


夫は鍵を開ける。


カチリ。


玄関の扉が開いた。


「……ただいま」


するとすぐに足音が近づく。


「お帰りなさいませ、旦那様」


佐川だった。


夫は少し眉を上げる。


「佐川」


「はい」


「先に休んでいいと言ったはずだ」


佐川は穏やかに微笑む。


「はい、存じております」


「じゃあ何で起きてる」


「旦那様がお帰りになるまでが私の務めです」


夫は小さく息を吐いた。


「……律儀だな」


その時。


廊下の奥の扉が開いた。


「パパ?」


結だった。

パジャマ姿で、髪は軽くまとめている。


夫は少し驚く。


「結、まだ起きてたのか」


「うん。勉強してた」


夫は時計を見る。


「もう遅いぞ」


「でも明日テストなんだよ」


「明日も朝練だろ」


「うん」


「なら早く寝ろ」


結は少し頬を膨らませる。


「もう少しだけ」


「何時までだ」


「……三十分」


夫は腕を組む。


「二十分」


「えー」


「二十分」


結は少し考えてから笑った。


「……わかった」


「終わったらすぐ寝ろ」


「はーい」


結は少し立ち止まり、父を見る。


「パパ」


「なんだ」


「お仕事おつかれさま」


夫は一瞬だけ目を細めた。


「ああ」


結は軽く手を振る。


「おやすみ」


「おやすみ」


結は自室に戻っていった。


扉が閉まる。


静かなリビング。


夫はネクタイを少し緩めながら言う。


「……佐川」


「はい」


「遅くまで悪いな」


佐川はすぐに首を横に振る。


「とんでもございません」


「旦那様のお帰りをお迎えするのは当然のことです」


「当然じゃない」


夫はソファに腰を下ろした。


「お前はもう十分やってくれてる」


佐川は静かに立っている。


「借金ももう全部返した」


夫の声は落ち着いていた。


「無理にここに付き合わなくてもいい」


「……」


「自由に生きてもいいんだ」


佐川は少しだけ目を伏せた。


そして静かに言う。


「旦那様」


「なんだ」


「御恩がございます」


夫は黙って聞く。


「住む場所を与えてくださり」


「働く場をくださった」


佐川はゆっくり顔を上げる。


「まだ恩は返し終えておりません」


夫は苦笑した。


「十分すぎるほど返してる」


「いいえ」


佐川は穏やかに首を振る。


「まだ足りません」


「……」


「これからも」


佐川は静かに言った。


「旦那様と結お嬢様を支えさせてください」


夫は少しだけ考え、そして言う。


「……頼む」


佐川は深く頭を下げた。


「はい」


少しの沈黙。


夫はふと思い出したように言う。


「そういえば」


「はい」


「相馬とはどうなんだ」


佐川がわずかに首を傾ける。


「どう、と申しますと」


「結婚とか」


佐川は一瞬驚いた顔をした。


そしてふっと微笑んだ。


「……旦那様」


「なんだ」


「相馬様とは、そのようなお話もしたことがございます」


「ほう」


「ですが」


佐川の声はとても穏やかだった。


「今はお互いに」


「支えたい方がいらっしゃいます」


夫は黙って聞いている。


「旦那様と結お嬢様が」


佐川は続ける。


「ですから」


「今はその方々にお仕えしていこう、と」


夫は少し目を細めた。


「……そうか」


それ以上は何も言わなかった。


佐川も静かに頭を下げる。


夜の静かな部屋。


遠くで結の部屋の灯りがまだついている。


夫はそれを見ながら、小さく呟いた。


「……二十分だぞ」


それを聞いた佐川は、そっと微笑んだ。

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