十年後の春⑤
夜遅く。
高層マンションのエントランスに黒い車が滑り込む。
エレベーターが最上階で静かに止まる。
扉が開くと、静かな廊下。
家の灯りだけが柔らかく漏れていた。
夫は鍵を開ける。
カチリ。
玄関の扉が開いた。
「……ただいま」
するとすぐに足音が近づく。
「お帰りなさいませ、旦那様」
佐川だった。
夫は少し眉を上げる。
「佐川」
「はい」
「先に休んでいいと言ったはずだ」
佐川は穏やかに微笑む。
「はい、存じております」
「じゃあ何で起きてる」
「旦那様がお帰りになるまでが私の務めです」
夫は小さく息を吐いた。
「……律儀だな」
その時。
廊下の奥の扉が開いた。
「パパ?」
結だった。
パジャマ姿で、髪は軽くまとめている。
夫は少し驚く。
「結、まだ起きてたのか」
「うん。勉強してた」
夫は時計を見る。
「もう遅いぞ」
「でも明日テストなんだよ」
「明日も朝練だろ」
「うん」
「なら早く寝ろ」
結は少し頬を膨らませる。
「もう少しだけ」
「何時までだ」
「……三十分」
夫は腕を組む。
「二十分」
「えー」
「二十分」
結は少し考えてから笑った。
「……わかった」
「終わったらすぐ寝ろ」
「はーい」
結は少し立ち止まり、父を見る。
「パパ」
「なんだ」
「お仕事おつかれさま」
夫は一瞬だけ目を細めた。
「ああ」
結は軽く手を振る。
「おやすみ」
「おやすみ」
結は自室に戻っていった。
扉が閉まる。
静かなリビング。
夫はネクタイを少し緩めながら言う。
「……佐川」
「はい」
「遅くまで悪いな」
佐川はすぐに首を横に振る。
「とんでもございません」
「旦那様のお帰りをお迎えするのは当然のことです」
「当然じゃない」
夫はソファに腰を下ろした。
「お前はもう十分やってくれてる」
佐川は静かに立っている。
「借金ももう全部返した」
夫の声は落ち着いていた。
「無理にここに付き合わなくてもいい」
「……」
「自由に生きてもいいんだ」
佐川は少しだけ目を伏せた。
そして静かに言う。
「旦那様」
「なんだ」
「御恩がございます」
夫は黙って聞く。
「住む場所を与えてくださり」
「働く場をくださった」
佐川はゆっくり顔を上げる。
「まだ恩は返し終えておりません」
夫は苦笑した。
「十分すぎるほど返してる」
「いいえ」
佐川は穏やかに首を振る。
「まだ足りません」
「……」
「これからも」
佐川は静かに言った。
「旦那様と結お嬢様を支えさせてください」
夫は少しだけ考え、そして言う。
「……頼む」
佐川は深く頭を下げた。
「はい」
少しの沈黙。
夫はふと思い出したように言う。
「そういえば」
「はい」
「相馬とはどうなんだ」
佐川がわずかに首を傾ける。
「どう、と申しますと」
「結婚とか」
佐川は一瞬驚いた顔をした。
そしてふっと微笑んだ。
「……旦那様」
「なんだ」
「相馬様とは、そのようなお話もしたことがございます」
「ほう」
「ですが」
佐川の声はとても穏やかだった。
「今はお互いに」
「支えたい方がいらっしゃいます」
夫は黙って聞いている。
「旦那様と結お嬢様が」
佐川は続ける。
「ですから」
「今はその方々にお仕えしていこう、と」
夫は少し目を細めた。
「……そうか」
それ以上は何も言わなかった。
佐川も静かに頭を下げる。
夜の静かな部屋。
遠くで結の部屋の灯りがまだついている。
夫はそれを見ながら、小さく呟いた。
「……二十分だぞ」
それを聞いた佐川は、そっと微笑んだ。




