十年後の春④ 〜相馬の胸の内〜
社長室の扉を静かに閉める。
カチリ、と小さな音。
相馬は一度、廊下の窓の外に視線を向けた。
春の光がガラスに反射している。
「……もうすぐ十年か」
小さく呟く。
手元のタブレットを見ながら歩き出すが、頭の中は別の時間に戻っていた。
十年前。
あの頃の社長は、今とは別人だった。
「……仕事どころじゃなかった」
会議は中止。
決裁は止まり。
社長室の灯りも消えたままの日が続いた。
会社は揺れていた。
役員も社員も、皆わかっていた。
社長がどれほど奥様を愛していたか。
それでも——
ある日、社長は言った。
「相馬」
社長室。
あの重たい空気。
「会社は、お前に引き継ぐ」
最初は意味がわからなかった。
「……どういうことでしょう」
「俺は辞める」
その言葉を聞いた瞬間、血が引いた。
「社長」
「もう無理だ」
机に座ったまま、遠くを見るような目だった。
「俺はもう、何もする気が起きない」
声に力はなかった。
「会社はお前なら守れる」
その時、相馬の中で何かが切れた。
「……ふざけないでください」
社長がゆっくり顔を上げた。
「相馬?」
「何を言っているんですか」
怒りで、声が震えていた。
「奥様を亡くしたから会社を辞める?」
「……」
「そんなこと、奥様が望みますか」
社長は何も言わなかった。
それが余計に腹が立った。
「社長!」
そして——
パシン。
静かな社長室に、乾いた音が響いた。
相馬の手が、社長の頬を打っていた。
打った瞬間、自分でも信じられなかった。
(……何をしている)
頭の中が真っ白になる。
上司であり社長。
尊敬している男。
その人を、平手打ちした。
恐れ多い。
本来なら即刻クビでもおかしくない。
だが、その時の自分は止まれなかった。
「目を覚ましてください!」
社長は驚いた顔でこちらを見ていた。
「奥様は、そんな社長を望んで亡くなりましたか!」
声が社長室に響く。
「逃げる社長を、奥様は愛しましたか!」
沈黙。
重い、長い沈黙。
やがて社長は、ゆっくり頬に手を当てた。
「……相馬」
低い声。
「お前」
一瞬、覚悟した。
(終わった)
だが次の言葉は違った。
「……本気で怒ってるな」
相馬は言い返した。
「当たり前です」
「私は今、本気で社長に怒っています」
社長はしばらく黙っていた。
そして——
小さく笑った。
本当に、かすかな笑いだった。
「……久しぶりに殴られた」
「殴っていません。平手打ちです」
「細かいな」
その瞬間、相馬は確信した。
(戻ってきた)
完全ではない。
だが、社長が戻り始めている。
相馬は歩きながら、静かに息を吐いた。
「……恐れ多いことをした」
今思えば、本当に無茶だ。
社長を叱責。
しかも平手打ち。
普通なら、ありえない。
だが——
「仕方ないでしょう」
小さく苦笑する。
「あの時は、それしか思いつかなかった」
奥様のことを思った。
いつも穏やかに笑っていた人。
社長のことを、本当に大切にしていた人。
あの人がもし見ていたら。
きっと言う。
——社長を、ちゃんと立たせてください。
「……それが、私の責務でした」
副社長として。
秘書として。
そして——
社長を信じる部下として。
相馬は足を止める。
会議室の前。
扉の向こうには役員たちが待っている。
「社長は、立ち直りました」
完全ではない。
だが、それでいい。
人は完全には治らない。
それでも前を向いて歩ける。
それが強さだ。
相馬は静かにネクタイを整える。
「……これからも支えますよ」
誰にも聞こえない声で呟く。
そして扉を開けた。




