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雨のち晴れ  作者: ありり
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十年後の春③

朝のオフィスフロア。

エレベーターの扉が静かに開く。


「おはようございます、社長」


社員たちが一斉に頭を下げる。


夫は軽くうなずくだけで歩き続ける。


「おはよう」


低い声。

いつも通りの、落ち着いた足取り。


廊下の奥。

社長室の扉が開く。


デスクに鞄を置き、窓の外を一度だけ見たあと、椅子に腰を下ろす。


コンコン。


「入れ」


扉が開く。


「おはようございます、社長」


入ってきたのは相馬だった。

手にはタブレットと書類。


「おはよう、相馬」


相馬はデスクの前に立つ。


「本日の予定をご報告いたします」


「頼む」


「午前九時より役員会議。十時半より海外支社とのオンライン会議。昼食後、十三時から投資会社との打ち合わせ。十五時より新規事業部の報告会です」


夫は腕を組み、淡々と聞く。


「相変わらず詰まってるな」


「社長が詰めたのですが」


「そうだったか」


わずかに笑う。


相馬も小さく笑った。


「……それと」


相馬が続ける。


「十七時からの会食ですが、先方より時間を十八時へ変更したいとの連絡がありました」


「問題ない。調整してくれ」


「承知しました」


相馬はタブレットを操作しながら頷く。


夫はしばらく相馬を見ていた。


「相馬」


「はい」


「お前、副社長だろ」


「ええ」


「なのに秘書業務までやらせてしまって悪いな」


相馬は一瞬きょとんとした顔をする。


そして少し肩をすくめた。


「今さらですね」


「……そうか?」


「十年前からです」


夫は苦笑する。


「確かに」


「むしろ社長が他の秘書を付けないからです」


「気を使わなくていいからな」


「その結果がこれです」


相馬が自分を指す。


「副社長兼秘書」


「肩書きが増えてしまったな」


「給料も増えているので問題ありません」


「それならいい」


二人の間に、穏やかな沈黙。


夫は机の上のカレンダーに目を落とした。


「……相馬」


「はい」


「来月の十二日」


相馬はすぐに予定表を確認する。


「今のところ、重要な予定は入っておりません」


「その日、休みをもらう」


相馬は顔を上げた。


「……承知しました」


言葉は短かった。


だが理由を聞くことはなかった。


夫が静かに言う。


「妻の誕生日だ」


相馬はゆっくり頷く。


「存じております」


夫はカレンダーを見たまま続けた。


「生きていれば……五十二回目だ」


窓から差す光がデスクに落ちる。


「十年経つのに、まだ覚えてるもんだな」


「当然です」


相馬は即答した。


「忘れるほうが難しいでしょう」


夫は小さく息を吐く。


「そうかもしれないな」


「当日は、会社のことは私にお任せください」


「悪いな」


「いいえ」


相馬は穏やかな声で言う。


「その日のために私がいるようなものです」


夫は少しだけ目を細めた。


「……相馬」


「はい」


「助かる」


相馬は軽く頭を下げる。


「それが仕事です」


書類をまとめ、踵を返す。


扉に向かう。


「相馬」


再び呼び止める声。


相馬が振り返る。


「はい」


夫は少し考え、そして静かに言った。


「……礼を言っておく」


相馬は眉をわずかに動かす。


「何の、でしょう」


「お前がいなかったら」


夫の声は低かった。


「俺はここまで立ち直れていなかった」


部屋の空気が静かに止まる。


相馬はしばらく何も言わなかった。


そしてゆっくり口を開く。


「……社長」


「なんだ」


「それは違います」


「違う?」


「社長が立ち直ったのは、社長が強いからです」


夫は苦く笑う。


「強くなんかない」


「いいえ」


相馬はまっすぐ見た。


「強いです」


一拍。


「ですが」


相馬の声が少し柔らかくなる。


「支える人間は必要です」


夫は黙って聞く。


「これからも」


相馬は静かに言った。


「支えます」


その言葉は、宣言のようだった。


夫はゆっくり頷く。


「……頼む」


「はい」


相馬は軽く頭を下げる。


「では、役員会議の準備をいたします」


扉の前で一度立ち止まり、振り返る。


「社長」


「なんだ」


「来月十二日は、安心してお休みください」


相馬は微かに笑った。


「会社は潰れません」


夫はふっと笑う。


「それは助かる」


扉が閉まる。


社長室に静寂が戻る。


夫はカレンダーの

五月十二日を、しばらく見つめていた。

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