十年後の春② 〜夫の胸の内〜
黒塗りの車が、朝の都心を滑るように走る。
窓の外には、春の光。
けれど夫の視線は、そこにはなかった。
「……もうすぐ十年か」
小さく、誰に向けるでもなく呟く。
運転手は何も聞こえなかったふりをして、ただ静かにハンドルを握っている。
十年前。
あの日から、時間は確かに流れた。
会社は順調に拡大し、結は成長し、家も変わらずそこにある。
だが——
「絶望、だったな」
あの頃の自分を思い出す。
朝が来るのが怖かった。
夜が来るのも怖かった。
眠れば、隣にいない現実を突きつけられる。
目を覚ませば、夢ではなかったと知る。
仕事に逃げた。
父親であることに、しがみついた。
それでも。
「俺は……立ち直れたのか?」
低い声が、車内に溶ける。
完全に、などという言葉はきっとない。
傷は薄くなったが、消えてはいない。
思い出は穏やかになったが、痛みはゼロではない。
五月。
あいつの最後の誕生日。
病室の白い天井。
静かな機械音。
ベッドに横たわる妻は、驚くほど穏やかだった。
「誕生日、何がほしい」
自分は、あの時、どんな顔をしていたのだろう。
声は震えていなかったか。
必死に平静を装っていなかったか。
彼女は少し考えてから、言った。
——あなたの笑顔。
あの一言が、今も胸に刺さっている。
「……俺は、笑えていたか?」
必死だった。
強くあろうとした。
泣くまいとした。
それは笑顔だったのか。
それとも、ただの作り物だったのか。
彼女は、見抜いていただろう。
それでも、あえてああ言ったのだ。
「俺に、生きろって言ったんだよな」
笑え、と。
前を向け、と。
結の前では、笑ってきた。
社員の前でも、堂々としてきた。
だが、心の奥底では——
今も時折、あの病室の白が蘇る。
春の信号で車が止まる。
フロントガラス越しに、桜の花びらが舞った。
「……お前の誕生日、もう一度ちゃんと祝いたかったな」
言葉は、窓の外へ消えていく。
もしあの時、もっと自然に笑えていたら。
もっと安心させられていたら。
答えはない。
けれど——
「今は、少しはマシな顔してると思うぞ」
わずかに口元を上げる。
それは作り笑いではない。
穏やかな、静かな笑み。
「結がな。最近、お前みたいに笑うんだ」
信号が青に変わる。
車が再び動き出す。
「俺はまだ完全じゃない。たぶんな」
それでも。
「それでも、生きてる」
ハンドルの向こうに広がる道を見据える。
「だから、笑うよ。できるだけな」
あの日も、今日も。
お前の望んだ笑顔でいられるように。




