十年後の春①
十年後、
四月半ばの朝。
高層階の窓から差し込む光は、十年前と変わらない。
キッチンからはコーヒーの湯気が立ち、トーストの焼ける匂いが広がる。
「パパ、私もう出るね」
制服姿の結は、ラケットバッグを肩にかけながらそう言った。
背はすっかり伸びて、妻によく似た横顔をしている。
「朝練か」
新聞から目を上げた夫が短く答える。
「うん。最後の大会前だから。三年生だし」
「……そうか」
少しの沈黙。
「パパ?」
「気をつけて行け。まだ風が冷たい」
「わかってるよ。もう子どもじゃないって」
「俺にとってはずっと子どもだ」
結は少しだけ照れたように笑った。
「はいはい。行ってきます、パパ」
「行ってこい」
玄関に向かう足音。
そこに控えていた佐川が、静かに頭を下げる。
「結お嬢様、お鞄お持ちいたします」
「大丈夫、佐川。重くないよ」
「ですが——」
「ほんとに平気。ほら、筋トレしてるし」
くるりと一回転して見せる。
佐川はふっと微笑んだ。
「……では、お気をつけて。朝はまだ車の通りも多うございます」
「うん。行ってきます!」
ドアが閉まる音。
エレベーターの電子音。
静寂が、広い部屋を包む。
夫はしばらく玄関の方を見つめたまま立っていた。
「旦那様」
佐川の声がやわらかく響く。
「お嬢様、本当に立派になられましたね」
「ああ」
低い声。
「十四か。……早いな」
「奥様に、よく似ていらっしゃいます」
その言葉に、夫は一瞬だけ目を伏せた。
「……ああ」
短く返し、リビングへ戻る。
壁際の棚に置かれた写真立て。
結が四歳の誕生日に撮った家族写真。
真ん中で笑う妻。
その横で照れたように立つ自分。
ケーキに手を伸ばす小さな結。
夫は写真を手に取る。
指先で、妻の笑顔をなぞる。
「……お前がいなくなって、もうすぐ十年だ」
声は静かだった。
「早いのか、遅いのか……わからないな」
窓の外で風が鳴る。
「結は中三だ。朝練だとよ。俺より早く出ていった」
わずかに口元が緩む。
「強くなった。……お前に似て、負けず嫌いだ」
沈黙。
「俺は、ちゃんとやれてるか?」
誰も答えない。
「……まあ、聞いても仕方ないか」
小さく息を吐く。
「今日も仕事だ。相変わらず忙しい」
写真を胸の高さまで持ち上げる。
「行ってくる」
それは報告のようでもあり、誓いのようでもあった。
背後で佐川が静かに言う。
「旦那様」
振り返る。
「お車の準備が整っております」
「ああ」
一歩踏み出す。
「旦那様」
もう一度、佐川が呼ぶ。
「本日もどうかご無理なさらぬよう」
夫は少しだけ目を細めた。
「俺は無理くらいがちょうどいい」
「奥様なら、きっとお叱りになります」
その言葉に、夫はほんのわずか笑う。
「……そうだな」
写真を元の場所へ戻し、ネクタイを整える。
「行ってくる」
今度は佐川に向けて。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
深く頭を下げる佐川。
エレベーターへ向かう足音が遠ざかる。
広いリビングには、朝の光だけが残る。
十年前と変わらない景色。
けれど、そこに立つ人の数だけが、違っていた。
それでも——
今日もまた、父は前を向いて歩いていく。




