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雨のち晴れ  作者: ありり
268/311

十年後の春①

十年後、

四月半ばの朝。


高層階の窓から差し込む光は、十年前と変わらない。

キッチンからはコーヒーの湯気が立ち、トーストの焼ける匂いが広がる。


「パパ、私もう出るね」


制服姿の結は、ラケットバッグを肩にかけながらそう言った。

背はすっかり伸びて、妻によく似た横顔をしている。


「朝練か」


新聞から目を上げた夫が短く答える。


「うん。最後の大会前だから。三年生だし」


「……そうか」


少しの沈黙。


「パパ?」


「気をつけて行け。まだ風が冷たい」


「わかってるよ。もう子どもじゃないって」


「俺にとってはずっと子どもだ」


結は少しだけ照れたように笑った。


「はいはい。行ってきます、パパ」


「行ってこい」


玄関に向かう足音。


そこに控えていた佐川が、静かに頭を下げる。


「結お嬢様、お鞄お持ちいたします」


「大丈夫、佐川。重くないよ」


「ですが——」


「ほんとに平気。ほら、筋トレしてるし」


くるりと一回転して見せる。


佐川はふっと微笑んだ。


「……では、お気をつけて。朝はまだ車の通りも多うございます」


「うん。行ってきます!」


ドアが閉まる音。

エレベーターの電子音。


静寂が、広い部屋を包む。


夫はしばらく玄関の方を見つめたまま立っていた。


「旦那様」


佐川の声がやわらかく響く。


「お嬢様、本当に立派になられましたね」


「ああ」


低い声。


「十四か。……早いな」


「奥様に、よく似ていらっしゃいます」


その言葉に、夫は一瞬だけ目を伏せた。


「……ああ」


短く返し、リビングへ戻る。


壁際の棚に置かれた写真立て。

結が四歳の誕生日に撮った家族写真。


真ん中で笑う妻。

その横で照れたように立つ自分。

ケーキに手を伸ばす小さな結。


夫は写真を手に取る。


指先で、妻の笑顔をなぞる。


「……お前がいなくなって、もうすぐ十年だ」


声は静かだった。


「早いのか、遅いのか……わからないな」


窓の外で風が鳴る。


「結は中三だ。朝練だとよ。俺より早く出ていった」


わずかに口元が緩む。


「強くなった。……お前に似て、負けず嫌いだ」


沈黙。


「俺は、ちゃんとやれてるか?」


誰も答えない。


「……まあ、聞いても仕方ないか」


小さく息を吐く。


「今日も仕事だ。相変わらず忙しい」


写真を胸の高さまで持ち上げる。


「行ってくる」


それは報告のようでもあり、誓いのようでもあった。


背後で佐川が静かに言う。


「旦那様」


振り返る。


「お車の準備が整っております」


「ああ」


一歩踏み出す。


「旦那様」


もう一度、佐川が呼ぶ。


「本日もどうかご無理なさらぬよう」


夫は少しだけ目を細めた。


「俺は無理くらいがちょうどいい」


「奥様なら、きっとお叱りになります」


その言葉に、夫はほんのわずか笑う。


「……そうだな」


写真を元の場所へ戻し、ネクタイを整える。


「行ってくる」


今度は佐川に向けて。


「いってらっしゃいませ、旦那様」


深く頭を下げる佐川。


エレベーターへ向かう足音が遠ざかる。


広いリビングには、朝の光だけが残る。


十年前と変わらない景色。


けれど、そこに立つ人の数だけが、違っていた。


それでも——


今日もまた、父は前を向いて歩いていく。


挿絵(By みてみん)

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