結と妻のバレンタイン大作戦⑧
バレンタインデーの夜。
最上階の部屋は静かだった。
結は自室でぐっすり眠っている。
佐川もすでに自室へ下がり、灯りは消えている。
リビングの大きな窓の前に、夫は一人立っていた。
眼下には、夜の街。
無数の光が静かに瞬いている。
夫の手には、小さな袋。
昼間、結から渡されたクッキーだ。
一枚取り出し、口に運ぶ。
さくり。
(……結構うまい)
思い出す。
「ぱぱ、すきだからあげる!」
あの真っ直ぐな声。
そしてキッチンで、妻と結が並んで作っていた姿。
夫は静かに息を吐き、夜景へ視線を戻す。
その背中を、廊下から妻が見ていた。
少しだけ立ち止まる。
夫は気づいていない。
妻はゆっくり歩き出す。
近づく。
そして――
背中から、そっと抱きしめた。
夫の体が、わずかに止まる。
腕の温もり。
夫はゆっくり振り向く。
「……どうした」
低い声。
妻は何も言わず、夫を見上げる。
その目を見た瞬間。
夫が何か言おうと口を開きかけた。
だが、その前に。
妻が一歩近づき――
口付けた。
一瞬。
夫の目がわずかに見開く。
(……妻から?)
これまで、こんなことはなかった。
だが驚きはほんの一瞬だった。
次の瞬間、夫の腕が妻の背に回る。
強く引き寄せる。
そして、夫からもう一度口付ける。
深く、静かに。
しばらくして、ゆっくり離れる。
妻が少し息を整えながら微笑む。
「……驚きました?」
夫は妻の顔を見つめる。
「少しな」
「嫌でした?」
「いや」
夫の手はまだ妻の腰にある。
「むしろ歓迎だ」
妻が小さく笑う。
「よかった」
夫が聞く。
「どういう風の吹き回しだ」
妻は窓の外をちらりと見る。
夜景が静かに光っている。
「今日は、バレンタインデーだから」
「クッキーはもう貰った」
夫は袋を軽く持ち上げる。
妻は首を振る。
「それは結と一緒に作ったものよ」
「そうだな」
「だから――」
妻は夫を見上げる。
少し照れながら。
「これは、私から」
夫の眉がわずかに動く。
「贈り物か」
「はい」
夫は低く笑う。
「なるほど」
妻の頬に手を添える。
「いい贈り物だ」
妻が少し赤くなる。
「……そうですか?」
「ああ」
そして夫は、もう一度静かに口付けた。
窓の外には、冬の澄んだ夜景。
甘いクッキーの香りがまだ部屋に残っている。
結と妻が作ったクッキー。
そして――
妻からの、もう一つのバレンタインの贈り物。
静かな夜のリビングで、二人の時間がゆっくり流れていた。
互いの温もりだけを、確かめ合っていた。




