結と妻のバレンタイン大作戦⑤
夕方。
玄関のドアが開く音。
「ただいま戻りました」
買い物袋を提げた佐川が足を踏み入れた瞬間、キッチンから賑やかな音が聞こえてくる。
「ママ、それ、ここ?」
「うん、そこに置いて」
佐川は目を瞬かせた。
(……奥様とお嬢様が、台所に?)
エプロン姿の妻と、その横で背伸びをしながら手伝う結。
佐川はすぐに靴を揃え、キッチンへ向かう。
「奥様、戻りました。すぐに私も――」
「佐川」
妻は振り向き、穏やかだがはっきりと告げる。
「今日は手伝わなくていいわ」
「しかし――」
「部屋で休んでいなさい」
きっぱりとした声音。
佐川は戸惑う。
「私の誕生日だから、ですか?」
結がにこにこしながら佐川を見る。
「さがわ、きょうはだめー」
「お嬢様まで……」
妻は微笑む。
「命令よ」
佐川は観念したように小さく息を吐き、深く一礼する。
「……承知いたしました」
結は満足そうにうなずく。
「よし」
*
しばらくして。
再び玄関の開く音。
「ただいま」
低く落ち着いた声。
結の目がぱっと輝く。
「ぱぱ!」
妻がそっと結を見る。
「帰ってきたわね」
結はこくりとうなずく。
「くっきー、わたしたい!」
「ええ。行ってらっしゃい」
結は大事そうに袋を抱え、ダッシュで玄関へ。
廊下に小さな足音が響く。
「ぱぱ!」
コートを脱ぎかけた夫が目を細める。
「おかえり!」
「はやくかえってきてくれた!」
「ああ」
結は息を弾ませながら、袋を差し出す。
「これ!」
夫は視線を落とす。
「……なんだ?」
「くっきー!」
「クッキー?」
「ママと、ゆいでつくったの!」
夫の眉がわずかに動く。
「手作りか」
「うん!」
結は胸を張る。
「きょうは、ばれんたいんでーだから!」
夫は静かに問い返す。
「バレンタイン?」
「すきなひとにあげるひ!」
まっすぐな目。
「ぱぱ、すきだからあげる」
一瞬、夫の表情が止まる。
それから、ゆっくりと息を吐き――
「……そうか」
片手で袋を受け取り、もう片方の腕で結を軽々と抱き上げる。
「よく作ったな」
「おいしかったよ!」
「味見はしたのか」
「した!」
夫は小さく笑う。
「抜かりないな」
クッキーの袋を持ったまま、結を抱えてリビングへ向かう。
*
リビングでは妻が静かに立っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
夫は結を抱いたまま、妻を見る。
「お前も作るのは初めてか?」
妻は穏やかにうなずく。
「ええ。初挑戦です」
「初めてか」
「失敗していたら、どうしようかと」
夫は袋を少し持ち上げる。
「大丈夫だろう。結は自信満々だった」
結は腕の中で誇らしげに言う。
「おいしいよ!」
夫は妻を見つめる。
「……ありがとう」
短い一言。
だが、その声はいつもより柔らかい。
妻は微笑んだ。
「どういたしまして」
甘いクッキーの香りが、ほんのりと漂う。
そしてまだ、佐川は自室で何も知らずにいる。
今夜は、まだ続きがある――
そんな空気を残しながら、リビングに三人の穏やかな時間が流れ始めた。




