結と妻のバレンタイン大作戦④
二月十四日、バレンタイン当日。
まだ朝の光がやわらかい時間。
玄関でコートを羽織る夫に、結がぴたりとくっつく。
「ぱぱ」
「どうした」
ネクタイを整えながら、夫は静かに見下ろす。
結は少しだけもじもじしてから言った。
「きょう……できたら、はやくかえってきてほしい」
夫の視線が、ほんの一瞬、妻へ向く。
キッチンには昨夜のうちに準備された材料。
どこか落ち着かない結の様子。
そして、妙に穏やかな妻の微笑み。
(……なるほど)
だが、理由は聞かない。
「努力しよう」
「ほんと?」
「ああ。できるだけ早く帰る」
結はぱっと顔を輝かせた。
「やった!」
妻が穏やかに言う。
「お気をつけて」
「ああ」
夫は結の頭を軽く撫で、妻に一瞬だけ視線を落とし――
「行ってくる」
ドアが静かに閉まった。
その足音が遠ざかるのを確認してから。
妻はくるりと振り向く。
「じゃあ、始めましょうか」
結の目がきらりと光る。
「さくせん、かいし!」
*
その前に。
妻は佐川に声をかけた。
「佐川」
「はい、奥様」
「悪いけど、買い物をお願いできる?」
メモを手渡す。
佐川は目を通し、うなずく。
「承知いたしました」
妻は続ける。
「それから――今日は昼食は外で済ませてきなさい」
佐川がわずかに目を見開く。
「……よろしいのですか?」
「ええ。たまには、ゆっくり」
穏やかだが、有無を言わせない声音。
佐川は一礼した。
「ありがとうございます」
玄関のドアが閉まる。
その瞬間。
「いま!」
結が小声で叫ぶ。
妻は笑いをこらえながらキッチンへ。
*
事前に用意しておいた材料を並べる。
バター、砂糖、卵、小麦粉。
「まずは混ぜるのよ」
「ゆい、やる!」
小さな手で木べらを握る結。
真剣そのものの顔で、生地を練る。
「けっこう、かたい……!」
「力を入れて。そう、いいわね」
妻も隣で支えながら、初めてのクッキー作りに挑戦する。
やがて、生地がまとまる。
「つぎは?」
「伸ばして、型を抜くの」
ハート型、丸型、星型。
結は舌を少し出しながら、慎重に型を押す。
「ぱぱのは、これ!」
「どれ?」
「いちばんおおきいハート!」
妻はくすっと笑う。
「佐川のは?」
結は少し考えて。
「……おはな!」
「素敵ですね」
天板にきれいに並べる。
「いれるわね」
オーブンのスイッチを押す。
タイマーが静かにカウントを始める。
*
焼き上がりを待つ間、二人は簡単に昼食を取る。
けれど落ち着かない。
「まだ?」
「あと少しよ」
やがて。
ふわり、と甘い香りが広がる。
「いいにおい……!」
オーブンの中で、こんがり色づくクッキー。
「できた……!」
慎重に取り出す。
網の上に並べると、さらに香ばしい匂いが広がった。
結がごくりと唾を飲む。
「……あじみ、していい?」
妻は少しだけ迷うふりをしてから。
「一枚だけよ」
二人で同時に、ぱくり。
さくっ。
そして――
顔を見合わせる。
「……」
「……」
同時に。
「おいしい!」
思わず笑い合う。
「せいこう?」
「大成功よ!」
結はぴょんと跳ねる。
「ぱぱ、びっくりするね!」
「きっと」
*
あとは、帰りを待つだけ。
だが、妻は止まらない。
「さて、夕食の準備もしなきゃ」
「え?」
「今日は佐川の誕生日よ」
結の目がまた輝く。
「みんなでおいわいするの?」
「ええ。夕食は、佐川も一緒に食べるの」
「ゆい、てつだう!」
エプロンをつける結。
妻は優しく微笑む。
「じゃあ、野菜を洗って」
「はい!」
キッチンに並ぶ母娘。
窓の外には、冬の澄んだ空。
甘いクッキーの香りと、夕食の支度の音。
今日は特別な日。
夫と佐川の帰りを待ちながら――
二人の小さな秘密は、静かに完成へと近づいていた。




