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雨のち晴れ  作者: ありり
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結と妻のバレンタイン大作戦④

二月十四日、バレンタイン当日。


まだ朝の光がやわらかい時間。


玄関でコートを羽織る夫に、結がぴたりとくっつく。


「ぱぱ」


「どうした」


ネクタイを整えながら、夫は静かに見下ろす。


結は少しだけもじもじしてから言った。


「きょう……できたら、はやくかえってきてほしい」


夫の視線が、ほんの一瞬、妻へ向く。


キッチンには昨夜のうちに準備された材料。

どこか落ち着かない結の様子。

そして、妙に穏やかな妻の微笑み。


(……なるほど)


だが、理由は聞かない。


「努力しよう」


「ほんと?」


「ああ。できるだけ早く帰る」


結はぱっと顔を輝かせた。


「やった!」


妻が穏やかに言う。


「お気をつけて」


「ああ」


夫は結の頭を軽く撫で、妻に一瞬だけ視線を落とし――


「行ってくる」


ドアが静かに閉まった。


その足音が遠ざかるのを確認してから。


妻はくるりと振り向く。


「じゃあ、始めましょうか」


結の目がきらりと光る。


「さくせん、かいし!」



その前に。


妻は佐川に声をかけた。


「佐川」


「はい、奥様」


「悪いけど、買い物をお願いできる?」


メモを手渡す。


佐川は目を通し、うなずく。


「承知いたしました」


妻は続ける。


「それから――今日は昼食は外で済ませてきなさい」


佐川がわずかに目を見開く。


「……よろしいのですか?」


「ええ。たまには、ゆっくり」


穏やかだが、有無を言わせない声音。


佐川は一礼した。


「ありがとうございます」


玄関のドアが閉まる。


その瞬間。


「いま!」


結が小声で叫ぶ。


妻は笑いをこらえながらキッチンへ。



事前に用意しておいた材料を並べる。


バター、砂糖、卵、小麦粉。


「まずは混ぜるのよ」


「ゆい、やる!」


小さな手で木べらを握る結。


真剣そのものの顔で、生地を練る。


「けっこう、かたい……!」


「力を入れて。そう、いいわね」


妻も隣で支えながら、初めてのクッキー作りに挑戦する。


やがて、生地がまとまる。


「つぎは?」


「伸ばして、型を抜くの」


ハート型、丸型、星型。


結は舌を少し出しながら、慎重に型を押す。


「ぱぱのは、これ!」


「どれ?」


「いちばんおおきいハート!」


妻はくすっと笑う。


「佐川のは?」


結は少し考えて。


「……おはな!」


「素敵ですね」


天板にきれいに並べる。


「いれるわね」


オーブンのスイッチを押す。


タイマーが静かにカウントを始める。



焼き上がりを待つ間、二人は簡単に昼食を取る。


けれど落ち着かない。


「まだ?」


「あと少しよ」


やがて。


ふわり、と甘い香りが広がる。


「いいにおい……!」


オーブンの中で、こんがり色づくクッキー。


「できた……!」


慎重に取り出す。


網の上に並べると、さらに香ばしい匂いが広がった。


結がごくりと唾を飲む。


「……あじみ、していい?」


妻は少しだけ迷うふりをしてから。


「一枚だけよ」


二人で同時に、ぱくり。


さくっ。


そして――


顔を見合わせる。


「……」


「……」


同時に。


「おいしい!」


思わず笑い合う。


「せいこう?」


「大成功よ!」


結はぴょんと跳ねる。


「ぱぱ、びっくりするね!」


「きっと」



あとは、帰りを待つだけ。


だが、妻は止まらない。


「さて、夕食の準備もしなきゃ」


「え?」


「今日は佐川の誕生日よ」


結の目がまた輝く。


「みんなでおいわいするの?」


「ええ。夕食は、佐川も一緒に食べるの」


「ゆい、てつだう!」


エプロンをつける結。


妻は優しく微笑む。


「じゃあ、野菜を洗って」


「はい!」


キッチンに並ぶ母娘。


窓の外には、冬の澄んだ空。


甘いクッキーの香りと、夕食の支度の音。


今日は特別な日。


夫と佐川の帰りを待ちながら――


二人の小さな秘密は、静かに完成へと近づいていた。

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