手付かずの夕食⑮
そして、現在。
食卓には、いつものあたたかな夕食が並んでいた。
湯気の立つ味噌汁。
彩りよく盛られたおかず。
結の好きなものと、少し苦手なものがほどよく並んでいる、妻らしい食卓だった。
結は小さな手でスプーンを持ちながら、ぱっと顔を上げた。
「ママ、いつもおいしいごはんをありがとう!」
無邪気で、まっすぐな声だった。
その言葉に、妻は少しだけ目を丸くして、それからふわりと微笑んだ。
「どういたしまして、結」
そのやり取りを見て、俺はほんのわずかに目を伏せた。
――いつも美味しいご飯をありがとう。
昔の俺には、言えなかった言葉だ。
言うべきだとすら、ちゃんとわかっていなかったのかもしれない。
受け取るばかりで、感謝を返さず、愛情を当然のもののように扱っていた。
だが今は違う。
俺は妻を見た。
食卓の向こうで、妻は穏やかな顔をしている。
あの頃と同じように、いや、あの頃よりずっとやわらかく、静かに笑っていた。
その微笑みを失いかけた日のことを、俺はたぶん一生忘れない。
だからこそ、言葉にする。
ちゃんと。
毎日でも。
何度でも。
俺は低く、だがはっきりと言った。
「……ありがとう」
妻がこちらを見る。
「今日も、うまい」
ほんの少し照れたように、結がえへへと笑う。
「パパもちゃんといえた!」
その一言に、妻がくすりと笑った。
「ふふ。ありがとうございます」
そう返す妻の声は、とても穏やかだった。
俺は箸を動かしながら、その声を静かに胸に落とした。
昔のように、気持ちを飲み込んだままにはしない。
大事なものを大事だと言わずに失いかけるような愚かさは、もう二度と繰り返さない。
結が楽しそうに話し、妻がそれに応じ、俺がその二人を見ながら食事をする。
それは特別でも何でもない、ありふれた夜なのかもしれない。
けれど俺にとっては、何にも代えがたい時間だった。
妻は今日も微笑んでいた。
その微笑みは、今度こそ寂しさを隠すためのものではなく、ちゃんと届いた言葉と、ちゃんと伝え合える日々の中で生まれた、穏やかな笑顔だった。
俺はその笑顔を見ながら、静かに思う。
この食卓を守っていく。
この人を、これからはちゃんと愛していく。
言葉でも、態度でも、日々の積み重ねでも。
結がまた元気よく言う。
「ママ、これもおいしい!」
妻が笑って、「それはよかった」と答える。
その声を聞きながら、俺もまた料理を口に運ぶ。
やはり、美味い。
そして何より、幸せだった。




