手付かずの夕食⑭
リビングに落ちた静かな沈黙の中で、俺はもう一度、妻を見た。
帰ってきてくれた。
こうして目の前にいて、俺の言葉を聞いてくれている。
それだけで救われるような気持ちなのに、それでもまだ足りなかった。
今までの俺がしてきたことは、たった一度の謝罪で消えるようなものではない。だからこそ、言葉にしなければならないと思った。
「……改めて、すまない」
低く、はっきりとそう言う。
妻は涙の名残を宿した目で、静かに俺を見返した。
俺は目を逸らさずに続けた。
「お前を傷つけた。追い詰めた。わかっていながら見ないふりをしていたこともある。全部、俺が悪かった」
胸の奥が鈍く痛む。
だが、この痛みから逃げる資格はない。
「俺は、お前を愛している」
その言葉を、今度はもう迷わず口にした。
「ずっとだ。ずっとずっと愛している」
言った瞬間、妻の睫毛がかすかに震えた。
「結婚する前から、ずっと愛していた。だが、愛しているくせに、俺がしてきたことはその逆だった。お前を安心させることも、大事にしていると伝えることもできなかった」
喉の奥が少し詰まる。
それでも、続ける。
「愛している。今も、これからもだ」
妻はしばらく何も言わなかった。
ただ、静かにその言葉を受け止めているようだった。
やがて、ふっと柔らかく微笑んだ。
その微笑みは、あの頃の寂しそうなものとは少し違っていた。
まだ痛みは残っているはずなのに、それでも俺の言葉を受け入れようとしてくれているような、そんな微笑みだった。
そして妻は、あまりにも妻らしい、静かな声で言った。
「……お食事は取られましたか」
思わず、息が止まりそうになる。
責める言葉でも、泣き言でもなく、最初にそれを訊くのかと。
ここまで傷つけた相手に、まだそんなふうに気遣われる自分が情けなくて、胸が熱くなった。
俺は小さく首を振った。
「……いや」
妻の用意してくれた夕飯は、あの夜のまま、手つかずで残っていた。
食べようとは思った。
だが、妻がいないままそれを口にすることが、どうしてもできなかった。
妻はそれを聞いても責めず、ただ少しだけ目を伏せ、それから穏やかに言った。
「では、温め直します」
そして少しだけ首を傾けるようにして、俺を見る。
「……一緒に食べませんか」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
一緒に食べる。
たったそれだけのことが、今の俺にはどうしようもなく尊く思えた。
何度も見過ごして、踏みにじってきた時間が、ようやくここに戻ってきた気がした。
俺はゆっくりと頷いた。
「ああ」
妻は立ち上がり、キッチンへ向かった。
その背中を見つめながら、俺はしばらく動けなかった。
戻ってきてくれた。
こうしてまた、俺のためにキッチンに立ってくれている。
けれど今度は、ただそれに甘えるのではなく、ちゃんと受け取らなければならない。
ほどなくして、温め直された料理が食卓に並んだ。
湯気が立ち上り、温かな匂いが静かに広がる。
俺は席についた。
妻も向かいに座る。
以前なら、こんなふうに向かい合って座っても、まともに会話すらしなかったかもしれない。
だが今は違った。
沈黙すら、以前よりずっと柔らかいものに思えた。
「いただきます」
その言葉を、俺は少しぎこちなく口にした。
妻が小さく目を丸くしてから、静かに微笑む。
「……はい。召し上がってください」
箸を取る。
一品、口に運ぶ。
味が広がった瞬間、胸が詰まった。
うまい。
本当に、うまかった。
優しい味だった。
疲れた体に沁みるような、気遣いのある味だった。
きっとあの日も、こうだったのだ。
いや、あの日の方が、もっと強い想いが込められていたのだろう。
なのに俺は、それを一口も受け取らなかった。
悔しさと情けなさがこみ上げる。
だが今は、ちゃんと伝えたかった。
俺は顔を上げて、妻を見た。
「……うまい」
その一言に、妻の表情がわずかに揺れた。
たったそれだけのことで、と思うかもしれない。
だが俺には、その一言を言うまでにあまりにも長い時間がかかってしまった。
「本当に、うまい」
もう一度言う。
妻はじっと俺を見つめ、それから少しだけ目を細めた。
俺は箸を置き、続けた。
「ありがとう」
はっきりと、今度こそ逃げずに言う。
「作ってくれて、ありがとう」
妻は何も言わなかった。
けれど、そのあと静かに微笑んだ。
その微笑みは、今度は寂しそうではなかった。
まだ全部が元通りになったわけではない。
消えない傷もある。
これから埋めていかなければならないものの方が、きっとずっと多い。
それでも、こうして二人で同じ食卓につき、
同じ料理を前にして、
俺が「うまい」と言い、
「ありがとう」と伝えられた。
そのささやかな時間が、何より愛おしかった。
妻は穏やかに言った。
「よかったです」
その声を聞きながら、俺はもう一度料理を口に運ぶ。
温かかった。
料理も。
食卓も。
そして、向かいに座る妻の存在も。
俺は噛みしめるように食べながら、心の中で静かに思っていた。
こういう時間を、俺はずっと欲しかったのだ。
なのに、自分の愚かさで何度も遠ざけてきた。
今度こそ、守りたい。
この食卓を。
この微笑みを。
こうして向かい合って食事ができる日常を。
妻は向かいでやわらかく微笑みながら、俺が食べる姿を静かに見ていた。




