手付かずの夕食⑬
玄関先での抱擁のあと、俺たちはゆっくりとリビングへ戻った。
部屋の中は静かだった。
広い最上階のリビングにいるのは、俺と妻だけ。
ただ、張りつめた空気の中で向かい合う俺たちの気配だけがそこにあった。
妻はソファの前で立ち止まり、少し迷った末に静かに腰を下ろした。
俺も向かいに座ろうとして、結局それでは遠い気がして、少しだけ近い位置に座った。
何から話せばいいのかわからなかった。
無事でよかった。
帰ってきてくれてよかった。
それだけは何度でも伝えたかったが、それで済む話ではないこともわかっていた。
妻が帰ってきてくれた。
その事実に、胸の奥はまだ安堵でいっぱいだった。
こうして目の前にいる。
もう声も届くし、表情も見える。
それだけで、昨日までの息苦しさが少し和らいでいる。
だが同時に、その安堵の下には重い後悔が沈んでいた。
ここまで妻を追い詰めたのは俺だ。
目の前にこうして戻ってきてくれたのは奇跡のようなもので、本来なら戻らなくてもおかしくなかった。
妻は膝の上で指先をそっと重ね、少し伏いたまま口を開いた。
「……家を出ても、ずっとあなたのことを考えていました」
その一言で、胸がぎゅっと締まる。
妻は静かに続けた。
「少し離れれば、少しは落ち着けるかもしれないと思ったんです。でも、だめでした。どこにいても、何をしていても、あなたのことが頭から離れませんでした」
責めるような口調ではなかった。
ただ、事実を確かめるように、ひとつひとつ言葉を置いていく声だった。
「心配で……ちゃんとお食事をされたかとか、お一人でいらっしゃる部屋はどんなふうだったかとか、そんなことばかり考えてしまって」
そこで妻は小さく息をついた。
「離れたのに、忘れられなかったんです」
俺は何も言えなかった。
忘れられなかった。
その言葉が、嬉しいはずなのに痛かった。
そこまで思ってくれている相手を、俺はどれだけ傷つけてきたのかと思うと、ただ受け取って喜ぶ資格などない気がした。
妻はゆっくり顔を上げた。
その目は少し赤いのに、まっすぐだった。
「だから……改めて、自分の気持ちを伝えたくて帰ってきました」
その瞬間、俺の背筋がわずかに強張る。
妻はもう逃げずに言おうとしている。
きっと、今夜ここで全部を伝えるつもりで戻ってきたのだ。
その覚悟が、声の静かさとは裏腹にはっきりと伝わってきた。
「私は、あなたを愛しています」
まっすぐに告げられたその言葉に、息が止まりそうになった。
妻は視線を逸らさず、そのまま続けた。
「ずっと、好きでした。冷たくされても、きつくあたられても、それでも好きで……だからこそ、苦しかったんです」
俺の手が、膝の上で無意識に強く握られる。
「あなたが忙しいのも、余裕がないのもわかっていました。だから少しでも癒されたらいいと思って、食事も頑張っていました。でも……頑張っても届いていない気がして、何をしてもあなたの心に入れない気がして」
妻の声が、そこで少しだけ震えた。
「あなたが、私をどう思っていらっしゃるのか、わからなくなってしまったんです」
それは、俺が一番聞かなければならなかった言葉だった。
どう思っているのかわからない。
愛していたくせに。
大切だったくせに。
失いたくなかったくせに。
俺がしてきたことは、妻にそう思わせることばかりだった。
好きだとも言わず、
感謝も示さず、
八つ当たりして、
俺の機嫌だけ取ればいいとまで言った。
それでどうして、妻が俺の愛情を信じられると思える。
信じられなくしていたのは、全部俺だ。
妻は一度唇を結び、それから意を決したように言った。
「だから、きちんとあなたの気持ちを聞こうと思いました」
部屋の空気が、しんと張る。
「もしあなたに、私への気持ちがないのなら……」
その先を聞きたくないのに、耳は逸らせなかった。
「あなたが望むのであれば、私はいつでも離婚に応じます」
その言葉は静かだった。
叫ぶようでもなく、責めるようでもなく、ただ覚悟を決めた人間の声だった。
けれど、俺には胸を裂かれるような一言だった。
離婚。
妻の口からそんな言葉が出るほど、追い詰めていたのか。
そこまで不安にさせたのか。
そこまで、愛されていない前提で自分の居場所を考えさせてしまったのか。
目の前が少し暗くなるような感覚がした。
妻は俺を見ている。
怖いはずだ。
この答え次第で、自分のこれからが決まるのだから。
それでも逃げずに、愛していると先に伝えた上で、もし気持ちがないなら受け入れると言った。
なんて残酷なことを、俺はこの人に背負わせてしまったのだろう。
「……そこまで」
ようやく出た俺の声は、掠れていた。
妻がわずかに目を揺らす。
俺は額に手を当て、苦しさを押し殺すように息を吐いた。
「そこまで、お前を追い詰めていたのか……」
心の底からの言葉だった。
妻は何も言わない。
否定もしない。
それが何より答えだった。
俺は目を閉じた。
食卓を見ても一言も礼を言わなかった夜。
一口も食べずに「いらない」と言った夜。
朝から頑張っていたことを知っていながら、踏みにじった自分。
俺の機嫌だけ取ればいいと言い放った自分。
次々に思い出して、吐き気がするほどだった。
どうしてもっと早く気づかなかった。
どうしてもっと早く、こんなにも大切な人だと行動で示せなかった。
妻が離婚という言葉を、自分を守るための最後の覚悟として口にするところまで来て、ようやく自分の罪の重さを知るなんて、あまりに愚かだった。
俺はゆっくり顔を上げた。
妻の目は不安で揺れていた。
それでも、答えを待っている。
逃げずに、俺の言葉を受け止めようとしている。
その姿を見て、もうごまかす余地など一つもないと思った。
「……悪かった」
低く、はっきりと言う。
「本当に、悪かった」
今までのような、その場しのぎの短い謝罪ではなかった。
胸の底から絞り出すような言葉だった。
「俺は、お前を愛していた」
妻の目が、少しだけ大きく見開かれる。
「ずっと、愛していた。だが、言葉にも態度にもできなかった。忙しいことを言い訳にして、余裕がないことを言い訳にして、お前に八つ当たりして……ひどいことばかりした」
一つ一つ、自分で言っていて胸が痛んだ。
だが、痛いからといって止める資格はない。
「お前が俺をどう思っているのかわからなくなるのは当然だ。俺がそうさせた」
妻はじっと聞いていた。
泣くでもなく、逸らすでもなく、ただ真剣に。
「離婚なんて言葉を、お前に覚悟させるところまで追い詰めたことを……俺は一生悔やむと思う」
そこで喉が詰まり、少しだけ言葉が途切れた。
「だが、俺は望まない」
きっぱりと言う。
「お前と離婚したいなんて、一度も思ったことはない。これからも思わない」
妻の唇が、かすかに震えた。
「お前にいてほしい。だが、ただそばに置きたいわけじゃない。今までみたいに、俺の機嫌だけ取っていればいい存在としてじゃない」
俺は妻をまっすぐ見た。
「俺の妻として、ひとりの人間として、大事にしたい。今さら言っても遅いのはわかっている。それでも、言わせてくれ」
もう逃げないと決めて、言葉を続ける。
「愛している」
その瞬間、妻の目に涙が滲んだように見えた。
俺の胸にもまた後悔が押し寄せる。
この言葉を、どうしてもっと早く言わなかったのか。
たったそれだけで救えた心が、どれだけあっただろう。
それでも今は、遅くても言うしかない。
「愛している。だから失いたくない。だが、失いたくないからといって、またお前を追い詰めるつもりはない」
俺は少し身を乗り出し、慎重に続けた。
「お前がどれだけ傷ついたか、すぐに全部は埋められない。それでも、償いたい。今度こそちゃんと向き合いたい。食事にも、お前の言葉にも、お前自身にも」
静かな部屋の中で、俺の声だけが落ちていく。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
その一言は、ようやく少し素直に出せた。
妻は俯き、膝の上で重ねた手をぎゅっと握った。
涙が一粒、静かに落ちる。
その涙を見た瞬間、俺はまた、自分がどれほどこの人を傷つけてきたかを思い知る。
嬉し泣きだけで終わるはずがない。
不安も、悲しみも、張りつめていたものも全部混ざっているのだろう。
俺はすぐには触れなかった。
今はただ、妻が自分の気持ちを整理できるように待つべきだと思った。
この沈黙すら、昔の俺なら耐えられなかったかもしれない。
だが今は違う。
答えを急かすより、妻の心がほどけるのを待ちたかった。
妻がここまで追い詰められてなお、帰ってきて「愛しています」と言ってくれた。
その重さを、今度こそ絶対に取り違えたくなかった。




