手付かずの夕食⑫
夜になっていた。
最上階の部屋は静かで、昼間よりもさらに広く感じられた。
照明の落ちたリビングにいると、時計の針の音ばかりが耳につく。俺は何度目かもわからないくらい携帯を見て、意味もなく窓の外へ視線を向けた。
まだ連絡はない。
帰ってくるのか。
来ないのか。
何もわからないまま待つ時間は、思っていた以上に堪えた。
ソファに座ってもすぐ立ち上がり、キッチンへ行ってはまた戻る。落ち着けと言い聞かせても、胸の内は少しも静かにならなかった。
その時だった。
玄関の電子音が、小さく鳴った。
一瞬、呼吸が止まった気がした。
まさかと思うより早く、俺は立ち上がっていた。
足が勝手に動く。廊下へ出て、玄関へ向かう。
扉が開く。
そこに、妻が立っていた。
小さなバッグを持ったまま、少しだけ疲れた顔で。
それでも、間違いなく妻だった。
見間違いじゃない。
夢じゃない。
その姿を見た瞬間、胸の奥で張りつめていたものが一気にほどけた。
「……っ」
声にならなかった。
俺はほとんど駆け寄るように妻のもとへ向かった。
逃げるな、焦るな、落ち着けと何度も自分に言い聞かせてきたくせに、その瞬間だけはもうどうにもならなかった。
妻は俺を見上げた。
少しだけ目が揺れていた。
何かを言おうとして、けれど言葉を選ぶように唇がかすかに動く。
そして妻は、本当に小さな声で言った。
「……ごめんなさい」
たった一言。
それを聞いた瞬間、胸が痛んだ。
謝るのはお前じゃない。
そう思った。
お前がどれだけ悩んで、どれだけ傷ついて、それでもここへ戻ってきたのかを思うと、その「ごめんなさい」があまりにも苦しかった。
だが、その場で咄嗟に出た言葉は、もっと単純なものだった。
「おかえり」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
それだけ言うのがやっとだった。
次の瞬間、俺は妻を抱きしめていた。
強すぎないようにと思ったのに、気づけば腕に力が入っていた。
失くしたと思ったものが、ようやくこの腕の中に戻ってきた。
そんな感覚だった。
妻の体温がある。
柔らかな髪が頬に触れる。
確かにここにいる。
それだけで、どうしようもなく安堵した。
「……あなた」
腕の中で、妻が小さく俺を呼ぶ。
その声を聞いただけで、喉の奥が詰まりそうになった。
「無事で、よかった」
ようやく絞り出した言葉は、それだった。
本当はもっとたくさん言いたかった。
心配した。
眠れなかった。
会社も休んだ。
どれだけ後悔しているか。
どれだけ会いたかったか。
けれど今は、それよりも先に、こうして帰ってきてくれたことを受け止めたかった。
妻は俺の胸の中で、しばらくじっとしていた。
抵抗もしない。ただ静かに、そのままでいた。
そのことが、余計に胸に沁みた。
きっとまだ、全部が元に戻ったわけではない。
妻の心の傷が消えたわけでもない。
話さなければならないことは山ほどある。
それでも今、この瞬間だけは。
帰ってきてくれた。
その事実だけで、十分だった。
俺は妻の背にそっと手を回し直し、少しだけ力を緩めた。
閉じ込めるためではなく、確かめるように。
「……すまなかった」
抱きしめたまま、低く言う。
妻の肩が、かすかに揺れた。
「謝るのは、俺の方だ」
妻は何も言わなかった。
けれど腕の中で、わずかに息を呑む気配がした。
玄関先の明かりの下、俺たちはしばらくそのままだった。
広い部屋の中で、ようやく埋まった空白。
たった一人いないだけで壊れそうだった日常が、少しだけ息を吹き返す。
妻が帰ってきた。
それだけで、こんなにも世界の色が違うのかと思う。
俺はもう一度、妻の髪に触れるように抱きしめながら、心の中で強く思っていた。
今度こそ、間違えない。
この腕の中のぬくもりを、もう二度と当たり前だと思わない。




