手付かずの夕食⑨ 〜夫視点〜
携帯が震えた瞬間、俺はほとんど反射のように画面を開いていた。
そこにあったのは、ようやく届いた妻からの返信だった。
――返信ができずごめんなさい。無事です。
たったそれだけの短い文面だった。
居場所もない。
理由もない。
いつ戻るのかも書かれていない。
それでも、その一文を見た瞬間、全身から力が抜けた。
無事だ。
それだけでよかった。
昨夜から胸の奥を締めつけ続けていた最悪の想像が、ひとまず打ち消される。
知らない場所で倒れているのではないか、何か事件に巻き込まれたのではないか、泣きながら一人でいるのではないか――そんな考えが、少しだけ遠のいた。
思わず深く息を吐く。
助かった、と思った。
本当に、心の底から。
妻が無事でいてくれた。
たったそれだけの事実が、今の俺には何より重かった。
だが安堵したのも束の間で、すぐに別の緊張が押し寄せてきた。
どう返す。
指が止まる。
ここで何を言うべきなのか。
何を言えばいいのか。
何を言ってはいけないのか。
画面を見つめたまま、俺はしばらく動けなかった。
どこにいる、と打ちかける。
消す。
今すぐ帰ってこい、と浮かぶ。
論外だと自分でわかる。
心配した。
悪かった。
話がしたい。
会いたい。
すまない。
言いたいことは山ほどあった。
昨夜から眠れなかったことも、会社を休んだことも、どれほど後悔しているかも、全部伝えたかった。
だが、そのどれもが今の妻には重すぎる気がした。
やっと返してくれたのだ。
それも、きっと悩んだ末の短い返信だろう。
そこへ俺の感情を一気にぶつければ、また妻を追い詰めるだけかもしれない。
ここで大事なのは、俺が安心したことを伝えること。
そして、無事でいてくれたことへの安堵をきちんと返すこと。
それだけにしろ、と自分に言い聞かせた。
余計なことを言うな。
問い詰めるな。
焦るな。
今はまず、妻が返信してきてくれたことを壊すな。
何度か文を打っては消し、ようやく残ったのは一番短い言葉だった。
――わかった。無事で良かった。
それだけ。
送信する直前、こんなに素っ気なくていいのかと迷った。
もっと何か添えるべきではないか。
せめて謝罪を一言入れるべきではないか。
けれど、今の妻に必要なのは、たぶん俺の後悔の長文ではない。
無事だと伝えたことに対して、ちゃんと受け止めたと返すことだ。
そう思って、俺はそのまま送った。
メッセージはすぐに送信された。
送ったあとも、しばらく画面を見つめたままだった。
これでよかったのかはわからない。
もっと言うべきだったのかもしれない。
何も足りていないのかもしれない。
それでも少なくとも、妻が無事であることに安堵していることだけは伝わるはずだった。
携帯を握る手の力を少しだけ緩めながら、俺は静かに目を閉じた。
無事で良かった。
本当に、それだけでよかった。
そして同時に思う。
無事だと知って、少し安心したからこそ、今度はますます会いたくなった。
声が聞きたい。
顔が見たい。
ちゃんと謝りたい。
だが、今はまだその時ではないのだろう。
妻が自分の意志で送ってきてくれた、その短い一文。
それをまずは大事にしなければならない。
焦るな、と俺はもう一度自分に言い聞かせた。
今はただ、つながったことを壊さないこと。
妻が返してくれた小さな糸を、今度こそ乱暴に引きちぎらないこと。
それが、今の俺にできるせめてもの誠実さだった。




