手付かずの夕食⑧ 〜妻視点〜
翌朝、民宿の部屋はやわらかな朝の光に包まれていた。
障子の隙間から差し込む光が畳の上に細く伸びている。
どこかで食器の触れ合う小さな音がして、朝食の支度をしているのだとわかった。都心のマンションとはまるで違う静かな朝だった。
けれど、私の胸の内は少しも静かではなかった。
昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じても、夫のことばかり考えてしまって、ようやく浅く眠れたと思ったらすぐに朝になっていた。
枕元の携帯を手に取る。
画面には、昨夜届いた夫からのメッセージが残っていた。
――どこにいる
――返信しろ
――今どこだ
短い言葉ばかりなのに、そこに滲む焦りが昨夜よりもはっきり見える気がした。
きっと落ち着かないまま夜を過ごしたのだろう。
そう思うと、胸が痛んだ。
返した方がいい。
少なくとも、無事であることだけは伝えなければ。
こんなに心配をかけたままなのは、さすがにいけない。
そこまではすぐに決まった。
けれど、実際に返信を打とうとすると、指が止まる。
何を書けばいいのかわからない。
どこにいるのかまで伝えるべきか。
少し一人になりたかったと説明するべきか。
昨日返信できなかった理由も言うべきか。
言葉を考えれば考えるほど、全部が重たく感じられた。
今の私には、まだ夫と深くやり取りする余裕はなかった。
責めたいわけではない。
でも、すぐに何事もなかったような会話をすることもできない。
だからせめて、最低限だけ。
私は何度か打っては消してを繰り返した末に、短い文章を作った。
――返信ができずごめんなさい。無事です。
それだけ。
たったそれだけなのに、送信ボタンを押すまでにずいぶん時間がかかった。
この文を送れば、夫はきっとすぐ返信してくる。
電話をかけてくるかもしれない。
帰ってこいと言われるかもしれない。
どこにいるのか聞かれるかもしれない。
そう思うと怖かった。
けれど、無事だと伝えたい気持ちの方が勝った。
私は小さく息を吸って、送信ボタンを押した。
メッセージはすぐに送られた。
その瞬間、ほっとしたような、別の緊張が始まったような、不思議な感覚が胸に広がった。
これで夫は、少なくとも私が無事だとわかる。
それだけで少し安心してくれるだろうか。
携帯を握ったまま、私はじっと画面を見つめた。
返事が来るのが怖いのに、来ないのも不安だった。
自分でも面倒なくらい、気持ちはまだ夫に向いている。
離れたはずなのに。
少し距離を取りたかっただけなのに。
こうして短い一文を送っただけで、胸がこんなにもざわつく。
やっぱり好きなのだと思う。
好きだからこそ、無事だと伝えたかった。
好きだからこそ、何も言わずにいることに耐えられなかった。
窓の外では、朝の光の中で小さな町が静かに動き始めていた。
その穏やかな景色とは裏腹に、私の心は夫からの返事を待ちながら、また落ち着かずに揺れていた。




