手付かずの夕食⑦ 〜夫視点〜
一方で、その夜、俺もほとんど眠れなかった。
ベッドに入っても落ち着かず、何度も起き上がっては携帯を確認した。
新しい通知はない。
メッセージは未読のまま。
電話をかけても、出ない。
時間が過ぎるほどに、胸の中の焦りは大きくなっていった。
どこにいるのか。
無事なのか。
一人でいるのか。
泣いてはいないか。
妻にはほとんど交友関係がない。
少なくとも、俺の知る範囲では、気軽に身を寄せられるような相手はいなかった。
だから余計に不安だった。
知らない場所で、一人でいるのではないか。
傷ついたまま、何も食べずにいるのではないか。
そんな想像ばかりが浮かんで、まともに目を閉じていられなかった。
そしてそのたびに、後悔が押し寄せた。
俺が傷つけた。
俺が追い詰めた。
あの夜、一口も食べずに「いらない」と言った、その一言が妻をここまで追いやったのだと思うと、胸がえぐられるようだった。
朝が来ても、何一つ状況は変わらなかった。
カーテンの隙間から入る光がやけに白々しくて、俺はほとんど眠れないまま起き上がった。
携帯を見る。
やはり返信はない。
その瞬間、会社に行っている場合ではないと判断した。
俺はすぐに秘書の相馬へ電話をかけた。
数回の呼び出しのあと、相馬の落ち着いた声が聞こえる。
『おはようございます』
「ああ……今日の予定だが、全部調整しろ。休む」
相馬は一瞬だけ間を置いた。
『かしこまりました。体調不良でしょうか』
「違う」
短く答えてから、少しだけ言葉に詰まる。
こんな私情を口にするのは本意ではなかった。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「妻が……いない」
電話の向こうで、相馬が息をのむ気配がした。
『奥様が、ですか』
「ああ。昨夜帰宅したら、家にいなかった。電話にも出ない。メッセージも返ってこない」
言葉にして口にすると、現実がさらに重くのしかかってきた。
相馬はすぐには余計なことを言わなかった。
そこがあいつのいいところでもある。
『ご実家には確認されましたか』
「した。来ていない」
『……そうですか』
「どこにいるのか、まるで見当がつかない」
その一言に、抑えきれない焦りがにじんだのが自分でもわかった。
見当がつかない。
それが何より恐ろしかった。
妻が今どこで、どんな顔をして、何を思っているのか。
何一つわからない。
こんなにも愛しているのに。
こんなにも失いたくないのに。
肝心な時に、俺は妻のことを何も知らないのだと思い知らされた。
好きな場所も。
一人になりたい時に行きそうな場所も。
心が弱った時、頼りたくなる相手も。
何一つ、知らなかった。
夫として、失格だった。
『私の方でも、何かお手伝いできることがあれば』
相馬の声はあくまで冷静だったが、その奥に気遣いがあった。
俺は目を閉じ、こめかみを押さえた。
「……いや、まずは会社のことを頼む。今日と、必要なら明日以降も空ける」
『承知しました』
「急ぎの案件だけまとめて送れ。あとは全部止めろ」
『かしこまりました』
少し沈黙が落ちたあと、相馬が低く言った。
『奥様、きっと無事です』
その慰めに根拠があるわけではない。
それでも、今の俺にはその一言がありがたかった。
「ああ……」
そう答えながらも、焦りは消えなかった。
電話を切ったあと、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
リビングにはまだ、昨夜の名残がある。
食卓。
メモ。
妻のいない静けさ。
どうすれば見つかる。
どこから探せばいい。
また電話をかけるべきか。
メッセージを送るべきか。
それとも、追い詰めるだけになるのか。
何一つわからない。
だが、ただ待っているだけでは気が狂いそうだった。
妻が心配だった。
今まで散々傷つけてきたくせに、と思う。
それでも心配でたまらない。
ちゃんと眠れたのか。
寒くはないか。
食べているか。
一人で泣いてはいないか。
そして後悔していた。
なぜもっと早く、優しくできなかった。
なぜもっと早く、愛していると伝えられなかった。
なぜ妻が壊れてしまう前に、自分の過ちに気づけなかった。
遅すぎる。
すべてが遅すぎる。
それでも、まだ終わってほしくなかった。
妻を見つけたい。
無事を確かめたい。
謝りたい。
今度こそ、ちゃんと向き合いたい。
その思いだけを胸に、俺は再び携帯を握りしめた。




