手付かずの夕食⑥ 〜妻視点〜
民宿の夜は、驚くほど静かだった。
都心のように車の音が絶え間なく聞こえることもない。
隣の部屋の物音すらほとんどなく、窓の外では風が木々を揺らすかすかな音だけがしていた。
そんな静けさの中に身を置けば、少しは眠れるかもしれないと思っていた。
けれど、だめだった。
布団に入って目を閉じても、頭の中に浮かぶのは夫のことばかりだった。
今ごろどうしているだろう。
メモを見ただろうか。
ちゃんと夕食を温めて食べてくれただろうか。
私がいない部屋で、一人で何を思っているのだろう。
考えないようにしようとしても、気がつけばまた夫のことを考えていた。
離れたかったはずなのに。
一人になりたかったはずなのに。
結局私は、家を出てもなお、夫のことを心配していた。
携帯を何度も見た。
メッセージはそのまま残っている。
短い文面の中に、いつもと違う焦りがにじんでいて、それを見るたび胸が落ち着かなくなった。
返した方がいいのではないか。
せめて無事だとだけでも伝えた方がいいのではないか。
そう思いながら、指は動かなかった。
今返してしまったら、またすぐに夫の声や言葉に引き戻されてしまう気がした。
私の心はまだぐらぐらしていて、少しきつく言われただけで、たぶん簡単に折れてしまう。
だから返信はできなかった。
けれど、それは夫をどうでもいいと思ったからではなかった。
むしろ逆だった。
どうでもよければ、こんなに悩まない。
こんなに胸が苦しくならない。
眠れないほど、相手のことばかり考えたりしない。
暗い天井を見つめながら、私はようやく認めていた。
私は、やっぱり夫が好きなのだと。
冷たい言葉を向けられても。
傷つくことがあっても。
あの人のことを考えるだけで、こんなにも胸が痛くなる。
離れた今になって、かえってそれがはっきりしてしまった。
好きだから苦しい。
好きだから、たまらなく心配になる。
好きだからこそ、あの家にいるのがつらくなったのだ。
目を閉じても眠れず、寝返りを打ちながら、私はずっとそんなことを考えていた。




