手付かずの夕食⑤ 〜夫視点〜
暗いリビングに一人で立ち尽くしながら、俺はようやく思い知っていた。
遅すぎた。
あまりにも遅すぎた。
テーブルの上には、妻が用意した夕食が並んでいる。
ラップのかかった皿。
丁寧に添えられたメモ。
そこにあるのは、俺が何度も踏みにじってきたものと同じだった。
気遣い。
優しさ。
そして、愛情だ。
それを、俺はずっと受け取れなかった。
いや、受け取ろうとしなかった。
仕事が忙しいから。
余裕がないから。
疲れているから。
そんなものは全部言い訳だ。
本当は、妻がどれだけ自分に心を砕いていたのか、気づいていた。
朝早くから台所に立っていることも。
俺の帰宅時間に合わせて温め直せるよう工夫していたことも。
味付けを変えたり、栄養を考えたり、少しでも食べやすいようにしていたことも。
知っていたくせに、見ないふりをした。
認めてしまえば、自分も何か返さなければならない気がしたのかもしれない。
優しくされた分、優しくし返さなければならない。
大切にされた分、大切にしなければならない。
そんな当たり前のことすら、あの頃の俺には重かった。
だから突き放した。
素っ気なくした。
冷たい言葉を投げた。
八つ当たりもした。
俺の機嫌だけ取ればいい。
そんなことを言った自分を、今すぐ殴りつけてやりたい。
何様のつもりだった。
何を偉そうに、あんな言葉を口にしていた。
妻はお前の機嫌を取るためだけにそこにいたんじゃない。
ひとりの人間として、必死にお前を想って、好きでいて、支えようとしてくれていたのに。
それを、俺は毎日削っていた。
少しずつ。
少しずつ。
妻の心がすり減っていく音にも気づかないまま。
思い返せば、妻はいつも微笑んでいた。
俺がどれだけ冷たくしても。
食卓を見もせず席を立っても。
きつい言葉をぶつけても。
責めることなく、ただ寂しそうに微笑んでいた。
あの微笑みの意味を、俺は今になってようやく知った。
あれは諦めだったのかもしれない。
悲しみを飲み込んだ顔だったのかもしれない。
それでもなお、俺を嫌いになれなかった女の、最後の優しさだったのかもしれない。
胸が潰れそうだった。
妻がいない。
その事実だけで、これほど息が苦しくなるとは思わなかった。
広すぎる部屋が、こんなにも冷たく、空っぽに感じるとは思わなかった。
これまでずっと、妻はここにいて当たり前だと思っていた。
俺が帰れば、明かりがついていて。
食卓が整っていて。
静かに出迎えてくれる。
どれだけ傷つけても、最後にはそこにいるのだと、勝手に思い込んでいた。
馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。
妻だって傷つく。
苦しいと思う。
離れたいと思う。
そんな当たり前のことを、なぜ考えなかった。
愛していた。
最初から、愛していた。
それだけは嘘じゃない。
結婚した時から、妻を愛していた。
家に帰れば妻がいることに、心のどこかで安堵していた。
食卓に並ぶ料理に、言葉にしないまま救われていた。
朝の「いってらっしゃい」に、夜の「おかえりなさい」に、どれだけ自分が満たされていたか、本当はわかっていた。
わかっていたのに、伝えなかった。
愛していると、一度もまともに言わなかった。
大事にしていると、態度で示さなかった。
ありがとうの一言すら、ろくに言えなかった。
愛しているくせに、逆のことばかりしていた。
最低だ。
妻がいなくなって初めて、自分がどれほど妻に依存していたかを知る。
食事を作ってくれることだけじゃない。
この家に妻がいることそのものが、俺の支えだった。
あの穏やかな気配が。
静かな足音が。
控えめな声が。
俺の荒れた感情を、どれだけ和らげていたか。
失ってからしかわからないなんて、救いようがない。
メッセージの送信画面を見つめながら、何度も文を打っては消した。
どこにいる。
返信しろ。
今すぐ帰ってこい。
そんな言葉しか浮かばない自分に、吐き気がした。
違うだろう。
本当に言うべきなのは、そんなことじゃない。
悪かった。
ごめん。
傷つけてすまなかった。
お前がどれだけ俺を想ってくれていたか、ようやくわかった。
俺はお前を愛している。
そう言うべきなのに、指が動かない。
今さらそんなことを言って、何になる。
どれだけ言葉を尽くしても、俺がしてきたことは消えない。
妻が傷ついた事実も、あの夜、一口も食べずに「いらない」と言った事実も消えない。
それでも。
それでも伝えなければ、もう二度と取り返せない気がした。
妻を失いたくない。
その思いだけが、胸の奥で痛いほどはっきりしていた。
いなくなってほしくない。
他の誰かのところへ行ってほしくない。
もう俺の前であの微笑みを見せてくれなくなるなど、耐えられない。
こんなにも身勝手なのに。
ここまで傷つけておいて、なお手放したくないと思う自分は醜い。
だが、それでも愛している。
愛しているからこそ、後悔がこれほど深い。
もっと早く気づけばよかった。
もっと早く感謝を伝えればよかった。
せめてあの日、食卓について一口でも食べていれば。
うまい、と一言でも言えていれば。
いや、それ以前に、もっと何度でも、やり直せる瞬間はあったはずだ。
朝食を作ってくれた朝。
黙って上着を受け取ってくれた夜。
疲れている俺に何も言わずお茶を出してくれた時。
俺を見上げて、控えめに微笑んでいた時。
いくらでもあった。
その全部を、俺は自分の手で潰してきた。
もし妻が戻ってきてくれるなら。
もう一度だけ、俺の前にいてくれるなら。
今度は絶対に間違えない。
食卓につく。
残さず食べる。
ありがとうと言う。
うまいと言う。
無理をするなと気づく。
疲れている時は俺が支える。
妻の気持ちを聞く。
笑ってほしいと願うだけでなく、そのために自分が変わる。
愛していると、ちゃんと伝える。
もう、機嫌だけ取ればいいなどと言わない。
そんなものは何一つ要らない。
欲しいのは、妻が俺のそばで心から笑ってくれることだけだ。
携帯を握る手に力が入る。
返信はまだ来ない。
この沈黙が、罰のようだった。
いや、罰なのだろう。
俺がしてきたことの報いだ。
それでも待つしかない。
妻がどこかで星を見上げているかもしれない夜に、俺はただ、祈るような気持ちで思っていた。
帰ってきてくれ。
いや、違う。
戻ってこなくてもいい。
今はまだ、俺のところじゃなくていい。
ただ無事でいてくれ。
傷ついた心を少しでも休めていてくれ。
その上で、いつかもし許されるなら。
もう一度だけ、俺に償う機会をくれるなら。
今度こそ、ちゃんと愛す。
今度こそ、言葉でも態度でも示す。
お前を愛している。
最初から、ずっと。
気づくのが遅すぎた、それだけだ。
その事実が、何よりも苦しかった。




