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雨のち晴れ  作者: ありり
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手付かずの夕食④ 〜妻視点〜

私は都会を離れた。


高層ビルの明かりも、車の音も、絶えず耳に入っていた生活音も、少しずつ遠ざかっていく。

電車に揺られ、乗り換えて、また少し進んで。気づけば窓の外の景色はまるで違うものになっていた。


見慣れない駅。

知らない空気。

初めて降り立つ土地。


独身時代にはよく一人旅はしていたが、久しぶりだ。


駅を出て、私はしばらくあてもなく歩いた。

何か目的があったわけではない。ただ、立ち止まりたくなかった。止まってしまったら、またすぐに引き返してしまいそうだったから。


都会よりも空が広く見えた。

風が少し冷たくて、でも嫌ではなかった。

見知らぬ商店の前を通り、小さな橋を渡り、静かな道をぶらぶらと歩く。


誰も私を知らない。

夫のことを知る人もいない。

この土地では、私はただの一人の女だった。


それが少しだけ、息をしやすくしてくれた。


どこかで夕食をとる気にもなれず、結局その日は小さな民宿に泊まることにした。

古びてはいたけれど、きちんと手入れされた建物で、玄関先には鉢植えが並んでいた。女将さんは穏やかな人で、予約もしていない私を見て少し驚きながらも、空いている部屋を用意してくれた。


「お一人ですか」


そう訊かれて、私は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……はい」


たったそれだけを答えるのに、少し力がいった。


部屋は質素だった。

小さなテーブルに、座布団。窓の向こうには暗くなり始めた町並みが見える。豪華な家具も、広いリビングも、磨き上げられた床もない。けれどその簡素さが、今の私にはありがたかった。


誰の機嫌も気にしなくていい。

何を言われるわけでもない。

静かで、温かくて、ただ一人でいられる。


荷物を置いて、私は深く息を吐いた。


少しだけ、解放された気持ちだった。


胸の奥をずっと締めつけていた何かが、ほんのわずかに緩んだような気がした。

夫の顔色をうかがわなくていい夜。

物音一つにも気を張らなくていい時間。

何を作ろう、どうしたら喜んでもらえるだろう、と考えなくていいひととき。


それなのに。


私は、ちっとも空っぽにはなれなかった。


頭の中には、夫のことばかりが浮かんでいた。


今ごろ帰宅しただろうか。

私の残した夕食を見つけただろうか。

ちゃんと温めて食べてくれただろうか。

それとも、また何も食べずにいるのだろうか。


心配しなくていいはずなのに、どうしても気になった。


自分でも呆れるくらい、私はまだ夫のことを考えていた。


部屋の灯りを落としたあと、携帯が震えた。


びくりとして、すぐに画面を見る。


夫からだった。


胸が強く脈打つ。


画面を開く。

短い文面。

けれどそこにあるのは、いつもの冷たさとは少し違う焦りのようなものだった。


――どこにいる

――返信しろ

――今どこだ


指先がこわばった。


返した方がいいのだろうか、と思った。

無事だと伝えた方がいい。

少なくとも、心配をかけているのなら。


けれど、すぐには打てなかった。


何を書けばいいのかわからなかった。


大丈夫です、と書けばいいのか。

少し一人になりたかったのです、と書けばいいのか。

すみません、と謝るべきなのか。


どの言葉も違う気がした。


謝りたいわけではなかった。

責めたいわけでもなかった。

ただ、今はまだ、夫と向き合えるほど心が整っていなかった。


返信欄を開いては閉じる。

短く打っては消す。

その繰り返しを、何度もした。


窓の外が気になって、私は携帯を握ったまま外へ出た。


民宿のそばの小さな道は、夜になると一層静かだった。

人通りもほとんどない。

空を見上げると、都会では見えなかった星が、驚くほどたくさん浮かんでいた。


私は立ち止まり、しばらく空を見上げた。


冷たい空気が頬に触れる。

静かな夜。

遠くで虫の声がする。


本当なら、少しは楽になれるはずだった。

ここには夫はいない。

あの家も、あの食卓も、苦しくなるような沈黙も、今は遠い。


それなのに、頭の中は夫でいっぱいだった。


今、何をしているのだろう。

メッセージを見ながら、どんな顔をしているのだろう。

怒っているだろうか。

呆れているだろうか。

それとも、ほんの少しだけでも、私がいないことを寂しいと思ってくれているだろうか。


そんなことを考えてしまう自分が、嫌になる。


離れたかったのに。

一人になりたかったのに。

星を見上げているこの瞬間でさえ、心はあの人のところにある。


携帯がまた震えた気がして、思わず画面を見る。

けれど新しい通知はない。

ただ、さっきのメッセージがそこに残っているだけだった。


私は返信に悩んだまま、長くその画面を見つめた。


今返せば、きっと夫はすぐに何か言うだろう。

帰ってこいと命じるかもしれない。

どこにいるのか問い詰めるかもしれない。

何も言わずにいた理由を、冷たく聞かれるかもしれない。


今の私は、それに耐えられる気がしなかった。


だから結局、その日は返信しなかった。


無事です、と打つことすらできなかった。


最低だと思った。

心配させているのに。

あの人がどれほど私を大切に思っているかなんて、まだわからないくせに。

それでも、少なくとも、私がいなくなったことには気づいているのに。


それでも、返せなかった。


民宿へ戻り、布団に入っても眠れなかった。


目を閉じれば、浮かぶのは夫の顔だった。

食卓を前にした横顔。

朝、何事もなかったように朝食を食べていた姿。

玄関で私を見ずに「行ってくる」と言った声。


そして、もし今夜、暗い部屋で一人で立ち尽くしているのだとしたら――そう思うと、胸が締めつけられた。


解放された気持ちは、確かにあった。

けれどそれは、自由になったという喜びとは少し違った。


張り詰めていた糸が緩んだだけ。

それでも、その先にある空白を埋めるのは、やはり夫の存在だった。


離れてもなお、頭の中では夫のことでいっぱいだった。

星を見上げても、静かな夜に身を置いても、心だけは少しも遠くへ行けなかった。

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