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雨のち晴れ  作者: ありり
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手付かずの夕食③ 〜妻視点〜

あの頃の私は、夫のことが好きだった。


今思えば、ずいぶんと不器用な好きだったのだと思う。

何をすれば喜んでもらえるのか、どうすれば少しでも心が休まるのか、そればかり考えていた。


夫は忙しかった。

朝早くから出て、夜遅くに帰ってくる日も多い。

仕事が大変なのだろうということは、私にもわかっていた。帰宅した時の表情や、ネクタイを緩める仕草の硬さ、言葉の端々ににじむ苛立ちで、今日も余裕がないのだと察することはできた。


だからせめて、家では少しでも癒されてほしかった。


温かい食事を食べて、少しだけでもほっとしてほしい。

おいしいと思ってもらえたらうれしい。

できれば、喜んでほしい。


そんなことを考えて、私は毎日食事を作っていた。


夫のあたりがきついことは、わかっていた。

言葉が冷たい日もあったし、明らかに八つ当たりだとわかる時もあった。

「俺の機嫌だけ取ればいい」

そう言われた時は、胸の奥が少しだけ痛んだ。


けれど、それでも嫌いにはなれなかった。


むしろ、好きだったからこそ受け止めてしまったのだと思う。


疲れているのだろう。

余裕がないだけなのだろう。

本当は優しい人なのかもしれない。

そんなふうに、自分の中で何度も言い聞かせていた。


実際、冷たい言葉の向こうに、ほんのわずかな気遣いを感じることもあった。

だから私は、いつかきっと伝わると信じていた。

ちゃんと尽くしていれば、いつかこの人は食卓を見てくれるようになる。

私の作るものを、おいしいと言ってくれる日が来るかもしれない。


そう思っていた。


でも、最近は本当に食べてくれなくなっていた。


少し箸をつけて終わる日。

まったく手をつけない日。

食卓を見ても、そこに込めた時間や気持ちなど最初からなかったかのように通り過ぎていく日もあった。


寂しかった。

悲しかった。


それでも同時に、夫の体調が心配でもあった。


こんなに食べなくて大丈夫なのだろうか。

仕事も忙しいのに、ちゃんと体がもつのだろうか。

あの人は自分のことを後回しにしそうだから、せめて家ではきちんと食べてほしい。


だから私は思った。


明日はもっと頑張って作ろう、と。


翌日、朝から仕込みをした。


その日は、いつもより少し丁寧に時間をかけた。

下ごしらえをして、味付けを何度か確かめて、盛り付けもきれいに見えるよう考えた。

夫が好きそうな味を思い出しながら、重すぎず、でも食べ応えはあるように工夫した。


キッチンに立ちながら、私は何度も想像していた。


一口でもいいから食べてくれたら。

少しでも、おいしいと思ってもらえたら。

できれば、ほんの少しでも表情がやわらいでくれたら。


それだけでよかった。


それだけで、きっと報われると思っていた。


夕方になり、料理を仕上げ、食卓に並べた。

我ながら、きちんとおいしくできたと思った。

湯気の立ち方も、色合いも、悪くない。

今日は大丈夫かもしれない。

今日は食べてもらえるかもしれない。


そんな期待を胸に、私は夫の帰りを待った。


玄関の開く音がして、心臓が大きく跳ねた。


お帰りなさいませ、といつも通りに迎える。

夫は短く返事をして、リビングへ向かった。


私は少し離れたところで立ったまま、夫が席につくのを見ていた。


緊張していた。

手のひらが冷たくなるくらい、どきどきしていた。


食べてくれるだろうか。

今日はどうだろう。

せめて一口だけでも。


そんなふうに息を詰めて見守っていた。


けれど夫は、料理を見て、そして一言だけ言った。


「いらない」


それだけだった。


一口も食べなかった。


その瞬間、何かが、音もなく壊れた気がした。


なにも言えなかった。

ただ、顔だけは崩してはいけないと思って、私は微笑んだ。


いつものように。

何でもありませんという顔で。

傷ついていないふりをして。


けれど心の中では、何かが完全に折れてしまっていた。


頑張ってもだめなんだ。

時間をかけても、気持ちを込めても、だめなんだ。

この人には、届かないんだ。


そんな思いが、静かに沈んでいった。


夫は、私に興味がないのかもしれない。


食事にではなく。

私そのものに。


私が何を考えているのか。

どんな気持ちでここにいるのか。

どれだけ好きで、どれだけ一生懸命やっているのか。


何ひとつ、知ろうとしていないのかもしれない。


そう思ったら、急に、自分がこの家の中でひどく空っぽな存在に思えた。


夫の気持ちが、わからなかった。


私のことをどう思っているのか。

少しでも必要だと思ってくれているのか。

ただ近くに置いておくのに都合がいいだけなのか。


わからない。

わからないまま、私は笑っていた。


その夜、眠ろうとしても眠れなかった。


何度も考えた。

私が悪いのだろうか。

もっと違う料理ならよかったのだろうか。

もっと別の言葉をかければよかったのだろうか。


でも、考えても答えは出なかった。


ただひとつはっきりしていたのは、このまま同じ場所にいたら、もう持たないかもしれないということだった。


少し、離れたい。


夫のことが嫌いになったわけではない。

むしろ好きだからこそ、これ以上ここにいたら、壊れてしまうと思った。


一人になりたかった。

少しだけでも。

誰にも気を遣わず、夫の顔色をうかがわず、自分の心がどれほど傷ついているのかを静かに確かめる時間がほしかった。


翌朝、私はいつも通りに起きた。


朝食を作り、食卓を整え、何事もなかったように振る舞った。

夫は朝食を食べて仕事へ向かった。


食べてくれたことに、少しだけほっとした。

でもそれで昨夜のことが消えるわけではなかった。


玄関で、私は微笑んで「いってらっしゃいませ」と言った。

夫も、いつも通りに家を出た。


扉が閉まったあと、部屋の中は急に静かになった。


このまま出てしまおうかと思った。


最低限の荷物だけ持って。

どこか、少し落ち着ける場所へ。

今日はもう、この家にいられない。

そう思っていた。


けれど、いざ出ようとすると、夫のことが気がかりだった。


昨夜は何も召し上がらなかった。

今朝は食べてくださったけれど、仕事から戻った時、また何もない部屋に一人でいたら、あの人はちゃんと食べるだろうか。

忙しくて、それすら面倒になってしまうのではないか。


こんな時まで心配するなんて、おかしいのかもしれない。

でも、好きだったから、どうしても放っておけなかった。


私はキッチンに戻った。


重いものではなく、軽めの夕食にした。

温めればすぐに食べられるもの。

疲れていても胃に負担にならないもの。

簡単なメモも添えた。


お疲れ様です。

温めて召し上がってください。


それだけ書いて、しばらく立ち尽くした。


本当は、もっといろいろ書きたかった。

ごめんなさい、とも。

少しだけ一人になりたいのです、とも。

でも、どんな言葉を残しても、うまく伝わる気がしなかった。


だから短い一文だけ残して、私は家を出た。

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