手付かずの夕食② 〜夫視点〜
翌朝、俺はいつも通りの時間に目を覚ました。
昨夜のことが頭に残っていなかったわけではない。
あの食卓。
手の込んだ料理。
そして、一口も食べずに背を向けた自分。
だが朝になれば、仕事が待っている。
結局俺は、自分の感情を整理するより先に、いつも通りの顔を作ることを選んだ。
洗面所で顔を洗い、ネクタイを締める。
ダイニングへ向かうと、すでに朝食が用意されていた。
焼き魚に、味噌汁。
小鉢に和え物と卵焼き。
昨夜のことがまるでなかったかのように、整った食卓だった。
妻はキッチンの前に立ち、俺に気づくと静かに頭を下げた。
「おはようございます」
「ああ」
それだけ返して席に着く。
妻はいつも通りだった。
少なくとも、表面上は。
目の下に少し疲れがあるようにも見えたが、俺は何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
昨夜、あれだけひどいことをしておいて、今さら何を言うつもりだ。
そんな資格が自分にあるのかと、心のどこかでわかっていた。
だから結局、俺は何も言わず、出された朝食を食べた。
味は、うまかった。
いつも通り、いや、いつも以上に丁寧で、優しい味だった。
胃に入っていくたびに、自分がどれほど身勝手だったかを思い知らされるようで、箸を持つ手が妙に重かった。
妻は向かいには座らず、少し離れた場所で静かに立っていた。
「……どうかしましたか」
不意にそう訊かれ、俺は顔を上げた。
妻は穏やかに微笑んでいた。
責めるでもなく、探るでもなく、本当にただ、いつもの調子で。
「いや」
短く答えると、妻は「そうですか」とだけ言った。
その微笑みが、昨夜と同じように胸に刺さった。
食べ終え、立ち上がる。
コートを手に取ると、妻は自然な所作で玄関までついてきた。
靴を履く俺の横で、妻は少しだけ背筋を伸ばして言った。
「いってらっしゃいませ」
顔を上げると、妻は微笑んでいた。
あまりにもいつも通りで。
あまりにも穏やかで。
だからこそ、逆に落ち着かなかった。
昨夜、あんなことがあったのに。
どうしてそんな顔ができる。
どうして何もなかったように、俺を送り出せる。
いや、本当は違う。
妻は、何もなかったことにしてくれていたのだ。
俺の機嫌を損ねないように。
俺が面倒を起こさないように。
ただ静かに、受け流してくれていた。
それがどれほど歪んだ優しさか、その時の俺はまだちゃんと理解できていなかった。
「ああ、行ってくる」
そう言って家を出た。
ドアが閉まる直前まで、妻は微笑んでいた。
その日の仕事は、妙に落ち着かなかった。
朝食を食べたからか。
いや、それだけではない。
昨夜の食卓が何度も頭をよぎった。
寂しそうに微笑んでいた妻の顔。
そして今朝、何事もなかったように俺を送り出した妻の顔。
仕事に集中しようとしても、ふとした瞬間にその表情が浮かぶ。
だが、俺はそれを振り払うように目の前の業務に没頭した。
考えたところで、何かが変わるわけではない。
そうやって、また自分をごまかした。
帰宅がいつもより少し遅くなった。
マンションの最上階。
静まり返った廊下を歩き、玄関の前に立つ。
鍵を差し込み、扉を開けた瞬間、妙な違和感があった。
暗い。
いつもなら、リビングの明かりがついているか、少なくとも廊下の先に気配がある。
だがその日は、家全体がひどく静かだった。
「……おい」
呼びかけても返事はない。
靴を脱ぎ、急いで中へ入る。
リビングのスイッチを入れると、ぱっと明かりが広がった。
そして、目に入ったのは食卓だった。
テーブルの上に、夕食が並べられている。
綺麗に盛り付けられた料理。
ラップのかかった皿。
湯を注げばいいだけの汁物。
まるで、俺が帰る時間に合わせてきちんと準備されたような食卓。
だが、そこに妻はいない。
胸の奥が、ひゅっと冷えた。
視線を走らせると、テーブルの端に小さなメモが置いてあった。
手に取る。
――お疲れ様です。温めて召し上がってください。
それだけだった。
短い。
あまりにも短すぎる。
「……どこだ」
思わず声が漏れた。
すぐに携帯を取り出し、妻に電話をかける。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
出ない。
舌打ちしそうになるのを飲み込んで、切る。
すぐにもう一度かける。
出ない。
メッセージを送る。
――どこにいる?
送信された画面を見つめる。
既読はつかない。
もう一度送る。
――今どこだ。返信しろ。
返事はない。
心臓が嫌な音を立て始めた。
寝室を開ける。
いない。
浴室。
いない。
クローゼット。
いない。
家中を見て回っても、妻の姿はどこにもなかった。
その瞬間、頭の中に浮かんだ言葉は一つだった。
――出ていった。
血の気が引いた。
まさか、と思う一方で、それ以外に説明がつかない。
昨夜のことが一気によみがえる。
食卓を前にして、俺が吐き捨てた「いらない」の一言。
寂しそうに微笑んでいた妻。
今朝の、静かすぎる笑顔。
あれは。
あの笑顔は。
もう決めていた人間の顔だったのか。
「……嘘だろ」
声が掠れた。
すぐに妻の実家へ電話をかけた。
数コールの後、義母が出る。
用件だけを告げると、向こうは戸惑ったように答えた。
『こちらには来ていませんが……』
その言葉で、さらに足元がぐらついた。
来ていない。
なら、どこにいる。
妻には、交友関係と呼べるものはほとんどない。
少なくとも俺の知る限り、気軽に頼れる相手などいなかった。
だからこそ、俺はどこかで勝手に思い込んでいたのだ。
妻は俺のそばにいるしかないのだと。
どれだけ冷たくしても、傷つけても、最後にはここにいるのだと。
その思い込みが、今、音を立てて崩れていく。
電話を切り、もう一度メッセージ画面を開く。
返信はない。
着信履歴だけが虚しく増えていく。
テーブルの上には、俺のために用意された夕食がある。
まだ温もりが残っている気がして、余計に息が苦しくなった。
出ていくなら、なぜ作った。
いや、違う。
最後までちゃんとしていこうとしたのだ。
最後まで、俺の妻として振る舞おうとしたのだ。
その事実が、胸を抉った。
俺はリビングに立ち尽くしたまま、携帯を強く握りしめた。
どこにいる。
何を考えている。
もう戻る気はないのか。
聞きたいことはいくらでもあるのに、相手は何も答えない。
広すぎる部屋が、今夜だけは異様に冷たく感じた。
俺にできることは、ただ一つ。
妻からの返信を待つことだけだった。
それが、こんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。




