手付かずの夕食① 〜夫視点〜
リビングに、結の小さな拗ねた声が響いた。
「やさいいため、きらい……」
箸を持ったまま、結はむっとした顔で皿を見つめている。まだ三歳の手では上手くつかめないらしく、野菜をつまもうとしては落とし、ますます不機嫌そうに頬を膨らませた。
その向かいで、妻は困ったように微笑んでいた。
無理に食べさせるべきか迷っているのだろう。結の機嫌を損ねれば、そのあとの食事が全部だめになることもある。隣では佐川が静かに立ち、食卓の様子を見守っていた。
俺は箸を置き、結を見た。
「結」
低く名前を呼ぶと、結はぴたりと動きを止めてこちらを見る。
「少しでも食え」
「やだ……」
「やだじゃない」
泣きそうな声に変わる前に、俺は淡々と続けた。
「作ってくれたママに感謝しろ」
その言葉に、結は妻を見た。
妻は少しだけ目を丸くして、すぐにやわらかく微笑んだ。
「結、ひとくちだけ頑張ってみる?」
「……ひとくち……」
渋々という顔で、結は箸ではなく小さなフォークを握り直した。にんじんとキャベツをほんの少しだけ刺して、恐る恐る口に運ぶ。もぐもぐと噛んで、やはりあまり好きではなさそうに眉を寄せたが、それでも飲み込んだ。
「えらい」
妻が褒めると、結は少しだけ得意そうな顔をした。
その光景を見ながら、俺はふと視線を落とした。
――作ってくれた者に感謝しろ。
自分の口から出たその言葉が、妙に胸に引っかかった。
昔の俺は、そんな当たり前のことすらできなかった。
結婚したばかりの頃。
まだ結もいない。佐川もいない。
この家には、俺と妻しかいなかった。
あの頃から......いや、その前から俺は妻を愛していた。
だが、言葉も態度も、その逆だった。
素っ気なく。
時に冷たく。
自分でも何を守ろうとしていたのかわからないほど、くだらない意地ばかり張っていた。
仕事が立て込んでいた。
朝から晩まで余裕がなく、会社でも家でも気が張り詰めていた。
だが、そんなものは理由にはならない。ただの言い訳だ。
余裕のなさを、俺は妻にぶつけていた。
妻は朝食と夕食を作っていた。
事前に「いらない」と言った時以外は、毎日きちんと用意していた。栄養のバランスを考えた食事。見た目も整っていて、味付けもその都度工夫していたのだと思う。
それでも俺は、まともに向き合おうとしなかった。
完食することの方が少なかった。
少し口をつけて終わる日もあった。
ひどい時には、ろくに見もせずに箸を置いた。
真剣に作っている妻に向かって、もっと考えろ、などと言ってしまったこともある。
今思えば、最低だ。
食事だけではない。
些細なことで苛立ち、きつい言葉を投げた。
疲れているからといって黙り込み、話しかけるなという空気を出した。
俺は妻に、俺の機嫌だけ取ればいい、とまで言った。
ひどい話だ。
あんな言葉を言われて、妻はどう思ったのか。
いや、どう思ったかなど、本当は考えなくてもわかる。
それでも妻は、応えようとしていた。
受け入れていた。
受け入れざるを得なかったのかもしれない。
文句も言わず、静かに頷いて、俺の前に食事を並べていた。
朝も夜も、まるでそれが当然の役目であるかのように。
けれど、あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
その日は朝から、妻が夕食の仕込みをしていた。
朝、俺が出る前からすでに下準備をしていて、帰ればきっといつも以上に整った食卓が待っているのだろうと、俺は知っていた。
知っていたのに。
帰宅して、ダイニングに入ると、料理は綺麗に並べられていた。
湯気の立つ汁物。
彩りのいい副菜。
きちんと焼き目のついた主菜。
皿の配置まで丁寧で、いつもより少しだけ華やかだったのを覚えている。
きっと妻の中では、今度こそ食べてもらいたい、喜んでもらいたい、そんな気持ちがあったのだろう。
今日こそは。
今日なら。
そう思いながら、朝から準備していたのかもしれない。
だが俺は、その気持ちを踏みにじった。
ネクタイを緩めながら、食卓を一瞥して。
妻の顔もろくに見ずに。
ただ一言、言った。
「いらない」
それだけだった。
一口も食べなかった。
妻は何も言わなかった。
責めることも、困った顔をすることもなく、ただ少しだけ寂しそうに微笑んでいた。
その微笑みが、今も忘れられない。




