穏やかな年末②
――12月30日 午前
最上階・静かな廊下
年末特有の澄んだ空気。
窓の外は冬晴れで、遠くの山並みまで見える。
掃除機を止め、佐川はモップをかけ終えた床を確認する。
几帳面な動きはいつも通り――のはずだった。
その時、エプロンのポケットの中で小さな振動。
佐川は一瞬だけ周囲を確認し、廊下の隅でスマホを取り出す。
画面には――
相馬:
「元日、休みが取れました。もしよろしければ、初詣でもご一緒しませんか」
佐川の指が止まる。
「……」
わずかに目を見開き、そして、ほんのりと頬が赤くなる。
小さく息を吸い、文字を打つ。
「喜んで。ご一緒させていただきます」
送信。
すぐに返信が来る。
「ありがとうございます。午後に迎えに伺います」
佐川はスマホを胸元で握りしめた。
「……午後……」
ほんのわずか、口元が緩む。
⸻
その様子を、少し離れたところからじっと見ている小さな影。
「さがわー?」
「……!」
振り向くと、結がうさぎのぬいぐるみを抱えて立っていた。
「お、お嬢様。どうなさいましたか」
「さがわ、いま、にこってした」
「しておりません」
即答。
結は首を傾げる。
「したよ? ほっぺ、あかい」
佐川は咳払いを一つ。
「暖房のせいです」
「だんぼう、そんなにあかくならないよ?」
じりじりと距離を詰めてくる結。
「いいことあったの?」
「ございません」
「うそ」
「うそではございません」
「じゃあ、なんでスマホ、ぎゅってしてたの?」
佐川は一瞬、言葉に詰まる。
「……連絡が来ただけです」
「だれから?」
「……仕事関係です」
「パパ?」
「いえ」
「ママ?」
「いえ」
「じゃあだれ?」
結の瞳がきらきらしている。
佐川は視線を逸らす。
「……相馬様です」
「そうまのおじさん?」
「はい」
結はぱっと顔を輝かせる。
「さがわ、デート?」
「ち、違います!」
思わず声が大きくなる。
リビングから妻の声が飛ぶ。
「どうしたの、結?」
「さがわが、デートだって!」
「言っておりません!」
佐川は慌てて否定する。
妻が廊下に顔を出し、くすりと笑う。
「あら。元日、初詣に行くの?」
佐川は観念したように小さく頷く。
「……お誘いをいただきました」
「よかったじゃない」
穏やかな声。
結がぴょんぴょん跳ねる。
「さがわ、かわいいおようふくきてね!」
「お嬢様……」
「お願いごと、なにするの?」
佐川は一瞬考える。
「……家内安全を」
結が首をぶんぶん振る。
「ちがう! さがわの!」
佐川は言葉を失う。
妻がそっと言う。
「たまには、自分の幸せをお願いしてもいいのよ」
昨日の旦那様と同じ言葉。
佐川は目を伏せ、小さく微笑んだ。
「……考えておきます」
結がにやりとする。
「さがわ、うれしいんでしょ?」
「……」
数秒の沈黙。
「……少しだけ」
結は満足そうに笑った。
「やっぱり!」
佐川は軽くため息をつきながらも、どこか柔らかい表情のままモップを握り直す。
窓の外では、年末の光がきらめいていた。
元日まで、あと二日。
胸の奥に、静かな期待が灯っていた。




