優しいと言われた日
夕暮れの公園。
結がブランコから飛び降り、駆け寄ってくる。
「パパ、やっぱり優しいよね」
俺は少しだけ眉を上げる。
「……優しい?」
「うん。だって、結が転んだらすぐ抱っこしてくれるし」
小さな手が俺の指を握る。
優しい、か。
――本当に?
視界が、夜のリビングへと引き戻される。
⸻
あの頃。
結が生まれる前。
佐川もいなかった頃。
夜のマンション最上階。
窓の向こうには無機質な夜景。
妻はエプロン姿で立っていた。
俺の前にグラスを差し出す。
「……どうぞ」
俺は受け取らない。
「今日、運転手と何を話していた」
静かな声だった。だが空気は冷えている。
妻は一瞬だけ目を伏せる。
「……明日のスケジュールの確認を」
「笑う必要があったのか?」
「え……?」
「楽しそうだったな」
沈黙。
妻はトレイを持つ手を強く握る。
「……仕事の会話です」
「俺は不愉快だ」
それだけで、部屋の温度が下がる。
妻はゆっくりと膝をつく。
「申し訳ありません」
その素直さが、逆に苛立たせた。
「次に同じことがあれば、家政婦を雇う」
「……え?」
「お前は何もするな。外出も許可制にする」
「それは……」
「嫌か?」
妻は息を呑む。
「……家政婦は、いりません」
「なぜ」
「あなたのことは、私がしたいからです」
その言葉に、一瞬だけ胸が揺れた。
だが俺は、それを認めなかった。
「口答えするな」
低い声。
「嫌なら、俺の機嫌を取り続けろ」
妻の肩がわずかに震える。
「……はい」
「他の男と会話するな」
「仕事でも?」
「すべてだ」
「……それは」
俺は立ち上がる。
ソファの影が妻を覆う。
「結婚しているとはいえ、信用できるとは限らない」
「私が、ですか?」
「人は変わる」
本当は違う。
怖かった。
失うことが。
だが、それを口にするほど俺は素直ではなかった。
「私は、あなたを愛しています」
震えた声で、そう言う。
「これからも、ずっと」
俺は顎を上げさせる。
「言葉は安い」
「……では、どうすれば」
「証明しろ」
唇を重ねる。
優しさはなかった。
確認。
支配。
所有の刻印。
「口答えの仕置きだ」
冷たく言い放つ。
妻は目を閉じたまま、抵抗しない。
「……はい」
俺はそのまま寝室へ連れていく。
あの頃の俺は、愛と支配の区別がついていなかった。
⸻
公園。
結が俺の膝に登ってくる。
「パパ?」
「……なんだ」
「なんか、怖い顔してる」
「していない」
「してるよ」
小さな手が俺の頬を触る。
「パパは優しいよ」
無条件の信頼。
あの夜の俺とは違う。
妻が今、俺を見る目はどうだろう。
恐れか。
安心か。
それとも――まだ少しの警戒か。
「パパ、ママにも優しいよ?」
その一言が、胸を刺す。
俺は結を抱き上げる。
「ああ……そうでありたい」
昔の俺は、守ると言いながら縛っていた。
優しいと言われる今の俺は、
本当に変われているのか。
夜景よりも、ずっと冷たい自分を思い出しながら、
俺は結を強く抱きしめた。
少なくとも。
あの頃よりは。
――そう信じたい。




