三人で、チクッと①
夕暮れの薄い橙色が、リビングの大きな窓から差し込んでいる。
ダイニングテーブルに座った妻は、手帳を見ながら小さく息をついた。
「……あ。」
ソファで積み木をしていた結が顔を上げる。
「ママ、どうしたの?」
「ねえ結、インフルエンザの予防接種、まだだったの思い出したの」
「……ちゅうしゃ?」
結の声が、すでに少し沈む。
妻は苦笑いしながらスマートフォンを手に取った。
「うん。でもね、病気にならないための大事な注射。今から予約しちゃうね」
「えぇ……」
結は積み木をぎゅっと握る。
――数分後。
「土曜日の午前中、三人分取れたわ」
ちょうどその時、玄関の開く音がした。
「ただいま」
低く落ち着いた声。夫が帰宅する。
「おかえりなさい」
妻は出迎え、さりげなく告げる。
「今ね、インフルエンザの予防接種、予約したの。今週の土曜日、三人で行きましょう」
夫は一瞬、わずかに眉を寄せる。
「……受けなきゃ、だよな」
その声音は、いつもの冷静さの中に、ほんの少しの重さを含んでいる。
妻は見逃さない。
「そうです。受けてください」
「……俺もか」
「もちろんです」
きっぱり。
結がそっと近づいてくる。
「パパ、ちゅうしゃ、いや……」
夫は結の前にしゃがみ、目線を合わせる。
「……実はな、俺も苦手だ」
結の目が丸くなる。
「え? パパも?」
「ああ。針、好きじゃない」
少し照れくさそうに言う。
結はまじまじと父を見つめる。
「パパにも、にがてなこと、あるんだね」
「あるさ。いっぱいある」
妻がくすりと笑う。
「でもね、結。パパもママも一緒に受けるから大丈夫」
結は不安そうに母を見る。
「なんで、ちゅうしゃするの?」
妻は優しく結の手を包む。
「インフルエンザってね、すごく熱が出て、つらい病気なの。予防接種をすると、かかりにくくなるのよ」
「かからないの?」
「絶対じゃないけど、かかっても軽く済むことが多いの」
夫も静かに続ける。
「結がつらい思いをしないためだ」
その言葉は、柔らかいが真剣だった。
結は少し考え込む。
「……いたい?」
夫は正直に言う。
「ちょっとは、な」
妻が横から。
「でも、ほんの一瞬よ」
結は唇をぎゅっと結ぶ。
「パパ、なく?」
「……泣かない、つもりだ」
「つもり?」
妻が笑いをこらえる。
夫は咳払いを一つ。
「結と一緒に頑張る」
真っ直ぐな目。
「一緒に?」
「ああ。一緒だ」
結は少しだけ背筋を伸ばす。
「じゃあ……ゆいも、がんばる」
妻はその小さな決意に胸が温かくなる。
「えらいわ」
夫は結の頭を撫でる。
「土曜日な。三人で行って、三人で帰る」
「そのあと、ごほうびある?」
結の問いに、妻と夫が目を合わせる。
妻が微笑む。
「それは、当日のお楽しみ」
結はまだ少し不安そうだが、さっきより表情が柔らいでいる。
夫は立ち上がり、ネクタイを緩めながら呟く。
「……はあ。土曜日か」
妻が横目で見る。
「逃げないでくださいよ」
「逃げない」
低く、覚悟を決めた声。
結がそっと父の指を握る。
「パパ、いっしょね」
「ああ」
夫はその小さな手を握り返す。
十一月の冷たい夜気の向こうに、少しだけ、家族の小さな勇気が灯っていた。




