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雨のち晴れ  作者: ありり
222/311

三人で、チクッと①

夕暮れの薄い橙色が、リビングの大きな窓から差し込んでいる。


ダイニングテーブルに座った妻は、手帳を見ながら小さく息をついた。


「……あ。」


ソファで積み木をしていた結が顔を上げる。


「ママ、どうしたの?」


「ねえ結、インフルエンザの予防接種、まだだったの思い出したの」


「……ちゅうしゃ?」


結の声が、すでに少し沈む。


妻は苦笑いしながらスマートフォンを手に取った。


「うん。でもね、病気にならないための大事な注射。今から予約しちゃうね」


「えぇ……」


結は積み木をぎゅっと握る。


――数分後。


「土曜日の午前中、三人分取れたわ」


ちょうどその時、玄関の開く音がした。


「ただいま」


低く落ち着いた声。夫が帰宅する。


「おかえりなさい」


妻は出迎え、さりげなく告げる。


「今ね、インフルエンザの予防接種、予約したの。今週の土曜日、三人で行きましょう」


夫は一瞬、わずかに眉を寄せる。


「……受けなきゃ、だよな」


その声音は、いつもの冷静さの中に、ほんの少しの重さを含んでいる。


妻は見逃さない。


「そうです。受けてください」


「……俺もか」


「もちろんです」


きっぱり。


結がそっと近づいてくる。


「パパ、ちゅうしゃ、いや……」


夫は結の前にしゃがみ、目線を合わせる。


「……実はな、俺も苦手だ」


結の目が丸くなる。


「え? パパも?」


「ああ。針、好きじゃない」


少し照れくさそうに言う。


結はまじまじと父を見つめる。


「パパにも、にがてなこと、あるんだね」


「あるさ。いっぱいある」


妻がくすりと笑う。


「でもね、結。パパもママも一緒に受けるから大丈夫」


結は不安そうに母を見る。


「なんで、ちゅうしゃするの?」


妻は優しく結の手を包む。


「インフルエンザってね、すごく熱が出て、つらい病気なの。予防接種をすると、かかりにくくなるのよ」


「かからないの?」


「絶対じゃないけど、かかっても軽く済むことが多いの」


夫も静かに続ける。


「結がつらい思いをしないためだ」


その言葉は、柔らかいが真剣だった。


結は少し考え込む。


「……いたい?」


夫は正直に言う。


「ちょっとは、な」


妻が横から。


「でも、ほんの一瞬よ」


結は唇をぎゅっと結ぶ。


「パパ、なく?」


「……泣かない、つもりだ」


「つもり?」


妻が笑いをこらえる。


夫は咳払いを一つ。


「結と一緒に頑張る」


真っ直ぐな目。


「一緒に?」


「ああ。一緒だ」


結は少しだけ背筋を伸ばす。


「じゃあ……ゆいも、がんばる」


妻はその小さな決意に胸が温かくなる。


「えらいわ」


夫は結の頭を撫でる。


「土曜日な。三人で行って、三人で帰る」


「そのあと、ごほうびある?」


結の問いに、妻と夫が目を合わせる。


妻が微笑む。


「それは、当日のお楽しみ」


結はまだ少し不安そうだが、さっきより表情が柔らいでいる。


夫は立ち上がり、ネクタイを緩めながら呟く。


「……はあ。土曜日か」


妻が横目で見る。


「逃げないでくださいよ」


「逃げない」


低く、覚悟を決めた声。


結がそっと父の指を握る。


「パパ、いっしょね」


「ああ」


夫はその小さな手を握り返す。


十一月の冷たい夜気の向こうに、少しだけ、家族の小さな勇気が灯っていた。

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