秋、ふたつの文化祭⑥ 〜相馬の胸の内〜
四十六歳。
この年齢になって、新しい感情に戸惑うとは思ってもいなかった。
駅で佐川さんを見た瞬間、わずかに息が止まった。
ベージュのコート。
いつも通り控えめなのに、今日はどこか柔らかい。
仕事の場では見慣れているはずの人なのに、あの日の彼女は少し違って見えた。
私は十一年、社長の秘書をしている。
社長に忠誠を誓い、それを誇りとしてきた。
それは揺らがない。
社長が第一であることも、変わらない。
だが――
それとは別の感情が芽生えるなど、想定していなかった。
「情がある」
ああ言ったのは事実だ。
だが、あれは逃げでもあった。
友情なのか、恋情なのか。
はっきりさせるのが怖かった。
四十代も半ばを過ぎて、若者のように心を波立たせるなど滑稽ではないか。
そう思っていた。
だが今日。
並んで歩く時間は、穏やかだった。
沈黙すら心地よい。
無理に言葉を探さなくてもいい。
写真を撮った瞬間。
肩が触れそうな距離。
あの一瞬、妙に胸が熱くなった。
写真を二部買ったのは衝動だ。
理由をつけるなら「記念」だが、本音は違う。
今日という日を、自分だけの記憶にしたくなかった。
社長のデスクに飾られた家族写真を見たとき、初めて気づいた。
思い出を形に残すことの意味。
仕事は積み重ねだ。
成果も数字も、いずれ更新される。
だが、写真はその瞬間を固定する。
今日の私たちの距離も、表情も、空気も。
あの一枚に閉じ込められている。
「またお茶でも」
あれは、半分は理性、半分は本心だ。
踏み込みすぎない距離。
だが、切らない縁。
私は独身だ。過去に想いを寄せた女性もいたが、
これまで、仕事を優先してきた。
それで十分だと思っていた。
だが今日、確かに感じた。
仕事以外の時間が、これほど穏やかだということ。
この年になって。
まさか、こんな感情を抱くとは。
焦りはない。
若さもない。
だが、だからこそ。
静かに、大切に扱いたいと思う。
情の正体は、まだ曖昧でいい。
ただ一つ確かなのは――
今日という一日が、私にとって特別だったということだ。
ポケットの中の写真。
帰宅したら、どこに置こうか。
机の引き出しか。
それとも、書棚の内側か。
誰にも見せる必要はない。
だが、自分には必要だ。
四十六歳の秋。
こんな日が来るとは、思ってもいなかった。




