知らなかった妻の嫉妬
夜。
タワマンの最上階。窓の外には無数の灯りが瞬いている。
ベッドの中、夫の胸に寄り添う妻。
夫は低く息を吐いた。
「……俺は、嫉妬深い自覚がある」
妻はくすっと笑う。
「知っています」
「笑うな」
少し拗ねた声。だが腕は自然に妻を抱き寄せている。
「お前はどうなんだ。嫉妬心とか、あるのか?」
妻は一瞬だけ目を伏せ、それから穏やかに言った。
「あります」
「……へえ」
夫は意外そうに眉を上げる。
「過去に一度だけ、ものすごく嫉妬しました」
「そうなのか?」
妻は頷く。
「あなたの使用人だった頃」
夫の腕が、わずかに強くなる。
「……あの頃か」
「プロポーズはいただいていました。でも、まだ婚姻届は出していなかった。だから、私は“使用人”という立場でした」
夫は小さく息をつく。
あの時期のことは、今でも胸の奥がざわつく。
「このマンションを商談に使っていた時期がありましたよね」
「ああ。覚えてる」
「一人の女性が来ました」
夫の表情がわずかに変わる。
「……二十代半ばくらいの、外資の担当者か」
「覚えているんですね」
「商談相手として優秀だった。だが……」
夫は視線を天井に向けた。
「距離が近い女だったな」
妻は小さく笑う。
「とても、近かった」
――あの日のリビング。
商談中、女は夫の隣にぴたりと座り、書類を覗き込むたびに肩が触れていた。
「社長、お若いのにすごいですね」
「こんな素敵な方が独身だなんて」
あの言葉を、妻は少し離れた場所から聞いていた。
夫は眉をひそめる。
「そんなことも言ってたかな……」
「ふふ」
妻は淡々と続ける。
「あなたが席を外したあと、あの女性は私に指示を出しました」
夫の腕がぴくりと動く。
「指示?」
「『お茶、冷めてるんじゃない?いれ直して』とか。
『もっと気が利く人を置いた方がいいんじゃない?』とか」
夫の瞳が静かに暗くなる。
「……知らなかった」
「言いませんでしたから」
妻は夫の胸に頬を寄せる。
「そして最後に、こう言ったの」
少しだけ声が低くなる。
「『もし私が妻になれたら、あなたは出て行ってもらうわ』って」
空気が止まる。
夫の手が、妻の肩を強く抱き寄せた。
「……そんなことを言ったのか」
「はい」
「俺は知らない」
「ええ、知りませんよね」
夫の声が低く沈む。
「覚えはある。あの女、やたらと踏み込んでくるタイプだった。だが……お前にそんなことを言ったとは」
妻は静かに微笑む。
「その時、初めて思いました」
「何を」
「あなたを誰にも取られたくない、と」
夫の鼓動が一瞬止まったように感じる。
「……」
「怖かった。私はただの使用人でしたから。
年齢も、立場も、全部あちらの方が“ふさわしい”ように見えて」
夫はきっぱりと言う。
「ふさわしい? 何を基準にだ」
「世間の目です」
「くだらない」
即答だった。
「俺が選んだのは、お前だ」
妻はくすりと笑う。
「でもあの時は、まだ“選ばれた側”ではなかった」
夫は沈黙する。
その通りだった。
プロポーズはしていたが、法的にも社会的にも、まだ彼女は“何者でもなかった”。
「嫉妬しました」
妻は穏やかな声で続ける。
「若くて、堂々としていて、あなたに臆せず近づける彼女に」
「……」
「でも同時に、決めました」
「何を」
「絶対に離れない、と」
夫の喉が鳴る。
「あなたを取られたくない。
誰に何を言われても、私があなたの隣に立つ、と」
夫はゆっくりと妻の顎を持ち上げ、目を合わせる。
「俺は最初から、お前しか見ていない」
「ふふ、知っています」
「だが……その女のことは覚えている。
商談後、個人的な食事にも誘われた」
妻の目がわずかに動く。
「断ったがな」
「……そうですか」
「お前がいる家で、他の女と食事に行くほど愚かじゃない」
妻は静かに息を吐く。
「その言葉、あの時に聞きたかったです」
夫は苦く笑う。
「お前が何も言わないからだ」
「使用人が、そんなこと言えません」
夫はしばらく黙り込み、そしてぽつりと呟く。
「……悔しいな」
「何がです?」
「お前にそんな思いをさせたことが」
妻は首を横に振る。
「いいえ。あれがあったから、私は自覚できました」
「何を」
「私は、あなたを愛していると」
夫の目が柔らぐ。
「嫉妬は、独占欲の裏返しですから」
「それを言うなら、俺は重症だな」
「知っています」
二人は同時に笑う。
夫は妻を強く抱き寄せる。
「今はどうだ」
「何がです?」
「嫉妬は」
妻は少し考えてから、夫の胸を指でなぞる。
「たまに、ありますよ」
「誰にだ」
「あなたに近づく人全員に」
夫は低く笑う。
「安心しろ。俺はお前のものだ」
妻は目を細める。
「それ、私の台詞です」
「いや、俺のだ」
「いいえ、私のです」
軽い言い合いのあと、妻は夫の胸に再び顔を埋める。
「でもあの時ほどの嫉妬は、もうありません」
「なぜだ」
「今は、あなたの妻ですから」
夫の腕が、優しく、しかし確かに強く妻を包む。
「誰にも渡さない」
「ええ」
窓の外の夜景が静かに瞬く。
嫉妬も、恐れも、もう過去。
今はただ、確かな温もりだけがそこにあった。




