あなたの隣で、自分でありたい⑥
翌朝。
ダイニングには、いつもの光が戻っていた。
コーヒーの香り。
トーストの焼ける音。
結の小さな笑い声。
夫はネクタイを整えながら、結を見る。
「今日は、パパと一緒に幼稚園に行くか?」
結の目がぱっと輝く。
「いく!!」
「即答だな」
「パパといきたい!」
夫はわずかに笑う。
「では、少し早めに出るか」
妻が穏やかに言う。
「助かります。結、ハンカチ持った?」
「もった!」
佐川が静かに近づく。
「旦那様、本日の予定は10時から会議でございます」
「ああ、間に合う」
結が椅子から飛び降りる。
「パパ、はやく!」
夫が妻を見る。
一瞬だけ、視線が交わる。
昨夜の緊張は、もうない。
妻が柔らかく微笑む。
「いってらっしゃい」
「……ああ」
その声は、昨日よりずっと穏やかだった。
玄関。
佐川がドアを開ける。
「お気をつけて」
結が振り返る。
「いってきまーす!」
妻と佐川が並んで頭を下げる。
高級車のドアが開き、運転手が一礼する。
「おはようございます」
「おはよう」
夫は結を先に乗せ、自分も隣に座る。
ドアが静かに閉まる。
車がゆっくりと走り出す。
結はチャイルドシートに座りながら、夫を見上げる。
「ねえ、パパ」
「なんだ」
「なかよくなってよかったね」
夫は一瞬、言葉を止める。
「……何のことだ」
「ママと」
真っ直ぐな瞳。
「きのう、ちょっとだけへんなかんじだった」
夫は小さく息を吐く。
「心配かけたか」
「ちょっとだけ」
「すまない」
素直に言う。
結は首を横に振る。
「ママはね、パパのことだいすきだから」
「……」
「すぐなかなおりするとおもってた」
夫の胸の奥が、わずかにほどける。
「そうか」
「うん」
結は誇らしげに言う。
「だって、ママ、パパのことみるとき、やさしいかおするもん」
夫は窓の外を見ながら、静かに笑う。
「お前はよく見ているな」
「ゆい、みてるよ」
しばらく沈黙。
車は信号で止まる。
結がふと思い出したように言う。
「ねえ、パパ」
「まだあるのか」
「パパ、もっとママをデートにさそってあげて」
夫が目を瞬かせる。
「……デート?」
「うん」
「なぜだ」
「かわいいふく、いっぱいかってあげてね」
思わず小さく笑う。
「服なら、いくらでも買える」
「ちがうの」
結は首を振る。
「いっしょにえらぶの!」
「……」
「ママ、うれしそうだから」
夫は昨夜の会話を思い出す。
“自分にかかるものは自分で賄いたい”
あの遠慮。
あの迷い。
(俺が渡すだけでは、足りないのかもしれないな)
「……そうだな」
「うん!」
「今度、誘ってみる」
「やった!」
結が手をぱちんと叩く。
「パパとママ、ならんであるくの、すき!」
夫は小さく頷く。
「それは大事だな」
車が幼稚園に到着する。
門の前で、夫は結のシートベルトを外す。
「今日は何をする」
「おえかき!」
「上手に描け」
「パパとママかく!」
「……そうか」
結は夫の手をぎゅっと握る。
「パパ、えがおわすれないでね」
夫は少しだけ驚き、それから微笑む。
「努力しよう」
結は満足そうに頷き、園舎へ走っていく。
夫はその背中を見送りながら、静かに息を吐く。
(子供に教えられるとはな)
運転手がそっと声をかける。
「会社へ向かいますか」
「ああ」
車に戻りながら、夫は思う。
守るだけでは足りない。
与えるだけでも足りない。
隣に並ぶ時間を、作ること。
それもまた、必要なのだと。
車が走り出す。
朝の光は、昨日より少しだけ柔らかく見えた。




