あなたの隣で、自分でありたい⑤ 〜佐川の胸の内〜
廊下は静かだった。
寝室の扉はきちんと閉まっている。
だが、この家は広く、音は意外と漏れる。
佐川は、廊下を歩いていた。
足を止めるつもりはなかった。
——だが。
「お願いだ」
旦那様の声が、わずかに聞こえた。
佐川は思わず立ち止まる。
聞くつもりはない。
そう思いながらも、扉の向こうの気配に耳が反応する。
奥様の声。
「……ありがとう」
静かで、少し柔らかい声。
佐川は小さく息を呑む。
(そういう話を……なさっていたのですね)
奥様が悩んでいたこと。
自分にかかるものは自分で賄いたい、という思い。
正直、少し驚いた。
この家に来てから、奥様が金銭に困る姿など一度も見たことがない。
欲しいものはすぐに揃う。
最高級の食材。
上質な衣服。
何不自由ない生活。
それでも——
奥様は「不安」だったのだ。
佐川は廊下の壁にもたれ、そっと目を伏せる。
(私は……)
自分はメイドだ。
雇われている身。
借金はあるが、自由はある。
休みの日に外へ出ることもできる。
人と会おうと思えば会える。
誰かと新しく関わろうと思えば、それもできる。
もちろん、この家に忠誠はある。
だが、鎖はない。
一方で奥様は——
お金に不自由はない。
だが、外に出ること一つ、簡単ではない。
旦那様の強い独占欲。
守られているという名の、閉じた世界。
(どちらが幸せなのでしょう)
自由がある自分。
守られている奥様。
佐川は静かに苦笑する。
答えは簡単ではない。
奥様は、旦那様の隣にいることを選んでいる。
その目に嘘はない。
だが、あの通帳を見つめる姿を思い出す。
あれは——
自由を求める顔ではなく、
“自分でありたい”という顔だった。
佐川は小さく息を吐く。
(私が考えることではありませんね)
自分の役目は、支えること。
家を整え、結お嬢様を見守り、旦那様と奥様の間に余計な影を落とさぬこと。
それだけだ。
心の中で、そっと言い聞かせる。
「私は、今の仕事に励むのみ」
そう。
それが自分の立場。
それが自分の選んだ道。
佐川は姿勢を正し、静かに自室へ戻っていった。
廊下には、夜の静寂だけが残っていた。




