あなたの隣で、自分でありたい①
夜のタワマン最上階。
リビングの大きな窓の外には、無数の灯りが瞬いていた。
静まり返った室内で、妻は一人、ダイニングテーブルに通帳を広げていた。
ページをめくるたび、数字が少しずつ減っているのがわかる。
会社員だった頃に貯めたお金。
そして、夫の“使用人”だった時代に、こっそり積み上げた貯金。
美容院代、基礎化粧品、時々買う洋服。
“自分に掛かるもの”は、自分で出すと決めていた。
夫のお金をあてにするのは違う。
そう思っていた。
けれど——。
残高を見つめる指先が、かすかに震える。
(……減ってる)
結はまだ年少。
今すぐではない。でも、もう少し大きくなったら。
短時間だけ。週に数日だけ。
パートに出たい。
それだけでいい。
外の世界が欲しいわけじゃない。
夫に何かあった時を想定しているわけでもない。
ただ——
“自分の分は自分で賄える自分”でいたいだけ。
そのとき、玄関のロックが静かに鳴った。
夫が帰ってきた。
少しして、スーツ姿の夫がリビングに現れる。ネクタイは緩められ、いつもの冷静な表情。
「起きていたのか」
「……ええ。少し、話があって」
夫はわずかに眉を動かす。
結と佐川が眠っていることを確認し、ソファに腰を下ろす。
妻も向かいに座った。
夜景を背に、二人の間には静かな緊張が流れる。
「何だ」
妻は一瞬だけ視線を落とし、そして真っ直ぐ見た。
「……少ししたら、パートに出たいと思っています」
沈黙。
夫の目が、わずかに細くなる。
「理由は」
声は冷静だ。
「自分の貯金が、少なくなっていて……不安なの。美容院代とか、自分に掛かるものは自分で出したくて」
「金なら出す」
即答だった。
「必要な分は言え。いくらでも渡す」
「違います」
妻は静かに首を振る。
「あなたのお金を使いたいわけじゃないの。自分に掛かるものは、自分で出したいんです」
夫の視線が冷たくなる。
「外とのつながりが欲しいだけだろう」
「違うわ」
即座に否定する。
「そういうことじゃないです」
「なら何だ」
「……自分の分を、自分で賄いたいだけ」
夫は鼻で小さく笑う。
「俺がいるのにか?」
「いるから、よ」
その言葉に、夫の目が鋭くなる。
「俺が養っているのが不満か」
「そうじゃない」
声が震えそうになるのを、妻は必死に抑える。
「あなたに何かあった時のため、とかでもないの。そんなこと考えてない。ただ……」
言葉を探す。
「ただ、自分に掛かるものくらいは、自分で出せる自分でいたいのです、」
静寂。
夫は背もたれに体を預け、長く息を吐く。
「必要ない」
その一言は、断定だった。
「家のことと結のことに専念しろ。それで十分だ」
「でも——」
「許可しない」
冷たい声。
妻の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「どうして?」
夫はじっと妻を見つめた。
「外に出れば、余計な男と接点が増える」
「そんなこと——」
「俺は嫌だ」
その声は低い。
「お前が他の男と話すのを見るだけで、気分が悪い」
妻は息を呑む。
「……そんな理由で?」
「理由は理由だ」
夫は立ち上がる。
「働く必要はない。金は俺が出す」
「自分で出したいの」
妻も立ち上がる。
「それだけなの」
夫の目が冷たく光る。
「俺を信用していないのか」
「違います」
「なら従え」
言葉が、空気を切り裂いた。
「俺に従え」
静まり返ったリビング。
夜景だけが、無言で瞬いている。
妻の胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
外のつながりが欲しいわけではない。
夫にもしものことが起きると想定しているわけでもない。
ただ、自分の分は自分で出せる自分でいたい。
それだけなのに。
二人の間に、冷たい沈黙が落ちる。
険悪な空気のまま、夜は更けていった。




