35歳、満ち足りた帰路①
翌朝。
まだ薄暗い時間に、結がもぞもぞと起き上がる。
「……パパ、あさ?」
夫も目を開ける。
「早いな」
障子の向こうがほんのり明るい。
妻も静かに起きる。
「まだ朝食まで時間がありますね」
結がぱっと起き上がる。
「おさんぽいく!」
夫が笑う。
「元気だな」
三人で上着を羽織り、外へ出る。
朝の白川郷。
観光客はまだほとんどいない。
合掌造りの屋根に朝日が差し込む。
「きれい……」
妻が小さく言う。
空気を吸い込む。
「……空気が美味しい」
夫も同じように深く息を吸う。
「確かにな」
結が両手を広げる。
「つめたいけど、いいにおい!」
「山の空気だ」
静かな道をゆっくり歩く。
川の音だけが聞こえる。
結がぽつりと言う。
「きょう、かえるの?」
「そうよ」
「……さみしい」
夫が娘を見る。
「楽しかったか」
「うん!」
間髪入れずに答える。
「もっといたい」
夫は少しだけ空を見上げる。
「……俺もだ」
結が嬉しそうに夫を見上げる。
「パパも?」
「ああ」
妻が微笑む。
「また来ましょう」
「うん!」
静かな朝の景色を、三人はゆっくり胸に刻む。
⸻
宿に戻り、朝食の時間。
囲炉裏のある食事処。
山の幸が並ぶ。
焼き魚、朴葉味噌、山菜の煮物。
「わあ」
結が目を丸くする。
「これ、なに?」
「山菜よ」
夫が箸を取り、味噌を口に運ぶ。
「……美味い」
「また言いましたね」
「事実だ」
結も一口。
「おいしい!」
妻は二人の様子を見て満足そうに頷く。
「来てよかったですね」
「本当だな」
夫は素直に答える。
食事を終え、宿の方に挨拶をする。
「ありがとうございました」
「お気をつけて」
外に出る。
「ばいばい、しらかわごう!」
結が大きく手を振る。
合掌造りの屋根と紅葉が、朝の光の中で静かに佇んでいる。
妻も振り返る。
「また来ようね」
「うん!」
夫も一度、深くその景色を目に焼き付ける。
(忘れない)
高速バスが到着する。
「乗るぞ」
三人は席に並んで座る。
結は窓にぴたりと張りつく。
「どんどんちいさくなる」
バスが動き出す。
白川郷の集落が、少しずつ遠ざかる。
「……さみしい」
結が小さく言う。
夫が優しく頭を撫でる。
「楽しかった証拠だ」
妻が微笑む。
「また来ればいいのよ」
「ほんと?」
「ほんと」
結は少し安心した顔になる。
約50分後、高山駅に到着。
駅前の売店でお土産を選ぶ。
「さがわになにかう?」
結が真剣な顔で棚を見る。
「これ、かわいい」
「飛騨のお菓子にしましょうか」
夫は地酒の小瓶を手に取る。
「これは俺用か」
「誕生日旅行の余韻ね」
「悪くない」
荷物を抱え、特急列車へ。
今度は三人横並び。
車窓から山が流れていく。
結は最初こそ外を眺めていたが、やがて妻の肩に寄りかかる。
「……ねむい」
「寝ていいわよ」
ほどなくして、結は眠る。
妻も、安心したのか目を閉じる。
夫はその様子を見つめる。
(昨日も今日も、よく動いた)
特急が名古屋へ到着。
乗り換えて新幹線。
帰りの座席も同じ並び。
発車してしばらくすると、妻も静かに眠っていた。
結はすでに夢の中。
夫は二人を見比べる。
娘は口を少し開けている。
妻は穏やかな寝顔。
(……)
スマホをそっと取り出す。
無音でシャッターを切る。
カシャ。
光に包まれた寝顔。
(いい写真だ)
昨日、今日だけで、何枚撮っただろう。
白川郷の景色。
三人の写真。
眠る娘。
そして今、眠る妻。
(写真立てに入れるのは、これにするか)
ふと、笑みが浮かぶ。
移動時間は長い。
新幹線、特急、バス。
だが、不思議と苦ではなかった。
弁当を選び、しりとりをし、景色を眺める。
移動そのものが、家族の時間だった。
(悪くないどころか)
むしろ、良かった。
窓の外を流れる景色を見ながら、夫は静かに思う。
35歳。
自分は確かに満たされている。
隣で眠る妻と娘。
それを見守る時間。
それが、何よりの贅沢だ。
新幹線が速度を落とし始める。
「……もうすぐ着くな」
小さく呟く。
だが、心の中はどこか穏やかだ。
(良い旅だった)
移動が長いのも、悪くない。
むしろ。
また、こうしてどこかへ行きたい。
次はどこだろうか。
そう考えながら、夫は静かに二人の寝顔を見守り続けた。




