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雨のち晴れ  作者: ありり
201/311

35歳、満ち足りた帰路①

翌朝。


まだ薄暗い時間に、結がもぞもぞと起き上がる。


「……パパ、あさ?」


夫も目を開ける。


「早いな」


障子の向こうがほんのり明るい。


妻も静かに起きる。


「まだ朝食まで時間がありますね」


結がぱっと起き上がる。


「おさんぽいく!」


夫が笑う。


「元気だな」


三人で上着を羽織り、外へ出る。


朝の白川郷。


観光客はまだほとんどいない。


合掌造りの屋根に朝日が差し込む。


「きれい……」


妻が小さく言う。


空気を吸い込む。


「……空気が美味しい」


夫も同じように深く息を吸う。


「確かにな」


結が両手を広げる。


「つめたいけど、いいにおい!」


「山の空気だ」


静かな道をゆっくり歩く。


川の音だけが聞こえる。


結がぽつりと言う。


「きょう、かえるの?」


「そうよ」


「……さみしい」


夫が娘を見る。


「楽しかったか」


「うん!」


間髪入れずに答える。


「もっといたい」


夫は少しだけ空を見上げる。


「……俺もだ」


結が嬉しそうに夫を見上げる。


「パパも?」


「ああ」


妻が微笑む。


「また来ましょう」


「うん!」


静かな朝の景色を、三人はゆっくり胸に刻む。



宿に戻り、朝食の時間。


囲炉裏のある食事処。


山の幸が並ぶ。


焼き魚、朴葉味噌、山菜の煮物。


「わあ」


結が目を丸くする。


「これ、なに?」


「山菜よ」


夫が箸を取り、味噌を口に運ぶ。


「……美味い」


「また言いましたね」


「事実だ」


結も一口。


「おいしい!」


妻は二人の様子を見て満足そうに頷く。


「来てよかったですね」


「本当だな」


夫は素直に答える。


食事を終え、宿の方に挨拶をする。


「ありがとうございました」


「お気をつけて」


外に出る。


「ばいばい、しらかわごう!」


結が大きく手を振る。


合掌造りの屋根と紅葉が、朝の光の中で静かに佇んでいる。


妻も振り返る。


「また来ようね」


「うん!」


夫も一度、深くその景色を目に焼き付ける。


(忘れない)


高速バスが到着する。


「乗るぞ」


三人は席に並んで座る。


結は窓にぴたりと張りつく。


「どんどんちいさくなる」


バスが動き出す。


白川郷の集落が、少しずつ遠ざかる。


「……さみしい」


結が小さく言う。


夫が優しく頭を撫でる。


「楽しかった証拠だ」


妻が微笑む。


「また来ればいいのよ」


「ほんと?」


「ほんと」


結は少し安心した顔になる。


約50分後、高山駅に到着。


駅前の売店でお土産を選ぶ。


「さがわになにかう?」


結が真剣な顔で棚を見る。


「これ、かわいい」


「飛騨のお菓子にしましょうか」


夫は地酒の小瓶を手に取る。


「これは俺用か」


「誕生日旅行の余韻ね」


「悪くない」


荷物を抱え、特急列車へ。


今度は三人横並び。


車窓から山が流れていく。


結は最初こそ外を眺めていたが、やがて妻の肩に寄りかかる。


「……ねむい」


「寝ていいわよ」


ほどなくして、結は眠る。


妻も、安心したのか目を閉じる。


夫はその様子を見つめる。


(昨日も今日も、よく動いた)


特急が名古屋へ到着。


乗り換えて新幹線。


帰りの座席も同じ並び。


発車してしばらくすると、妻も静かに眠っていた。


結はすでに夢の中。


夫は二人を見比べる。


娘は口を少し開けている。


妻は穏やかな寝顔。


(……)


スマホをそっと取り出す。


無音でシャッターを切る。


カシャ。


光に包まれた寝顔。


(いい写真だ)


昨日、今日だけで、何枚撮っただろう。


白川郷の景色。

三人の写真。

眠る娘。

そして今、眠る妻。


(写真立てに入れるのは、これにするか)


ふと、笑みが浮かぶ。


移動時間は長い。


新幹線、特急、バス。


だが、不思議と苦ではなかった。


弁当を選び、しりとりをし、景色を眺める。


移動そのものが、家族の時間だった。


(悪くないどころか)


むしろ、良かった。


窓の外を流れる景色を見ながら、夫は静かに思う。


35歳。


自分は確かに満たされている。


隣で眠る妻と娘。


それを見守る時間。


それが、何よりの贅沢だ。


新幹線が速度を落とし始める。


「……もうすぐ着くな」


小さく呟く。


だが、心の中はどこか穏やかだ。


(良い旅だった)


移動が長いのも、悪くない。


むしろ。


また、こうしてどこかへ行きたい。


次はどこだろうか。


そう考えながら、夫は静かに二人の寝顔を見守り続けた。

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