旅の目的地、白川郷④ 〜夫の胸の内〜
結が真ん中で眠っている。
小さな寝息。
規則正しい呼吸。
その向こうで、妻が静かに横になっている。
夫は天井を見つめながら、腕の中の温もりを思い出していた。
(……写真立てか)
高価な時計でも、ネクタイでもない。
取引先からもらうような重たい箱でもない。
木の素朴な写真立て。
だが。
今日一日の景色が、脳裏に鮮明に浮かぶ。
早朝の駅。
弁当を選ぶ時間。
しりとりで笑う結。
高山の街並み。
白川郷の景色に、言葉を失った自分。
そして。
「お誕生日、おめでとうございます」
あの声。
(俺のために、ここまで考えたのか)
(行き先を伏せ、移動手段まで選び、
俺が見たことのない景色を用意して。)
その上で、最後に写真立て。
“これから思い出を増やしていきたい”。
それは物ではない。
未来の約束だ。
夫はゆっくり息を吐く。
35歳。
若い頃は、成功や数字ばかり追っていた。
今も仕事は全力だ。
だが、今日初めてはっきり思った。
(これ以上の贈り物はない)
景色を見た瞬間、声が出なかったのは、
風景のせいだけではない。
その隣に、妻と娘がいたからだ。
あの瞬間、胸の奥が満たされた。
(俺は、満ちている)
自分は独占欲が強い。
妻の微笑みに過敏になる。
だが今日。
その独占ではなく。
“共有”の時間だった。
電車の中で並んで座り、
弁当を分け合い、
娘としりとりをし、
三人で景色を見上げる。
それがこんなにも、深く心に残るとは思わなかった。
写真立ては空だ。
だが、もう中身は決まっている。
今日撮った写真。
そしてこれからの毎年。
(俺たちも、ああいう夫婦になりたい)
高山で見た老夫婦。
肩を寄せ合い、自然に並ぶ姿。
妻は「なれます」と言った。
迷いなく。
(なりたい、ではない)
なれる、と言い切った。
あの確信が、胸に残る。
夫はそっと横を向く。
薄暗い部屋の中、
妻の寝顔が見える。
(この人は、俺の人生を豊かにする)
守る存在だと思っていた。
支えるのは自分だと思っていた。
だが今日。
自分が与えられていることの方が、はるかに多いと気づいた。
強く抱きしめた時、
言葉が出なかったのは。
感謝が、喉に詰まったからだ。
(ありがとう、か)
簡単な言葉だが、
それしかなかった。
35歳。
まだ途中だ。
仕事も、人生も。
だが、少なくとも今日。
自分は確かに幸せだと、
胸を張って言える。
夫は静かに目を閉じる。
隣には妻。
真ん中には娘。
そして、これから埋まっていく写真立て。
(来年も、再来年も)
祝われるのではなく。
三人で時間を重ねていく。
それが何よりの贈り物だと、
夫は深く噛み締めていた。




