旅の目的地、白川郷③
夕食を終え、温泉にも入り、三人は畳の部屋でくつろいでいた。
窓の外には、夜の白川郷。
静かで、虫の声だけが聞こえる。
結は浴衣姿でごろごろ転がっている。
「きょうは、3にんでならんでねる!」
「そうだな」
夫が座布団に寄りかかりながら答える。
「いつもはパパとママだけずるいもん!」
「ずるくはない」
妻が笑う。
「今日は特別ね」
布団が三枚並べられる。
「まんなかはゆい!」
「はいはい」
夫が結を真ん中に寝かせる。
「おやすみ」
「おやすみー!」
元気よく言ったものの。
数分もしないうちに。
「……すぅ」
静かな寝息。
「早いな」
夫が小さく言う。
「たくさん歩きましたから」
妻は結の髪をそっと撫でる。
「でも、楽しかったって」
「ああ」
部屋に静けさが戻る。
しばらくして。
妻が小さく体を起こす。
「……改めて」
小さな声。
「お誕生日、おめでとうございます」
夫は静かに妻を見る。
妻は布団の脇に置いていた小さな小包を取り出す。
「これ」
「……何だ」
「大したものではありませんけど」
夫は受け取り、少し驚いたような顔をする。
「開けてもいいか」
妻は頷く。
夫は丁寧に包みを開ける。
中から現れたのは、シンプルな木製の写真立て。
「……」
妻は少し視線を落とす。
「高価なものが贈れなくて、申し訳なく......すみません」
「……」
「でも」
顔を上げる。
「これから、たくさん思い出を作っていきたいな」
静かな声。
「今日撮った写真も入れられますし。これからも、毎年増やしていけたらいいなって」
夫は写真立てを見つめる。
飾り気のない、温かみのある木。
(形に残るものより)
思い出を残す器。
夫はゆっくりと顔を上げる。
「……申し訳ない、とはどういう意味だ」
「え?」
「十分だ」
言葉は短い。
だが、声が少し低い。
妻が戸惑う。
「でも、あなたは何でも持っているし……」
次の瞬間。
夫は写真立てをそっと脇に置き、妻を引き寄せた。
強く、抱きしめる。
「……」
妻が小さく息を呑む。
「これ以上、何を望む」
低い声が耳元で響く。
「今日一日で、俺は十分すぎるほどもらった」
「……」
「この景色も、移動の時間も、あいつの笑顔も」
腕の力が少しだけ強まる。
「そして、これも」
妻の肩に額を寄せる。
「ありがとう」
たった一言。
だが、重みがある。
妻の目が少し潤む。
「喜んで、もらえましたか」
「……ああ」
少しだけ離れ、妻を見る。
「これから、毎年増やすんだろう?」
「はい」
「なら、来年も再来年も祝ってもらわないとな」
「当然です」
夫が小さく笑う。
「逃げられないな」
「逃がしません」
二人の間に、穏やかな空気が流れる。
隣では、結が寝返りを打つ。
「……ぱぱ……」
小さな寝言。
二人は同時にそちらを見る。
夫が小さく呟く。
「……守るものが増えたな」
「ええ」
写真立ては、まだ空のまま。
だが、その中に入る未来の時間は、もう始まっている。
夫はもう一度、静かに言う。
「ありがとう」
35歳の夜。
白川郷の静寂の中で、
家族の温もりを抱きしめながら、夫はその幸せを深く噛み締めていた。




