旅の目的地、白川郷①
高山駅前のバスターミナル。
「まもなく白川郷行き、高速バスが発車いたします」
アナウンスが流れる。
妻が結の手を引く。
「どこいくの? まだひみつ?」
妻は少しだけ間を置いて、微笑む。
「ここで、発表します」
夫が静かに視線を向ける。
「今回の目的地は――白川郷です」
「白川郷……」
夫がゆっくりと繰り返す。
「テレビで見たことはある」
「世界遺産の、あの?」
「そう」
結が目を輝かせる。
「おうちがとんがってるとこ!?」
「そうよ」
夫が小さく息を吐く。
「初めてだ」
妻が少し照れたように言う。
「ずっと、あなたと来てみたかったんです」
結が夫を見上げる。
「パパ、たのしみ?」
夫は一瞬、真顔のまま考えたふりをして。
「……ああ」
そして少しだけ口元を緩める。
「パパもワクワクしている」
「ほんと!?」
「本当だ」
結は大満足でバスに乗り込む。
⸻
約50分。
山道を進むバスの窓から、紅葉が広がる。
赤、橙、黄色。
「きれい……」
妻が小さく呟く。
夫も外を見る。
(都会では見られない色だ)
結は窓に張り付いている。
「やま! いっぱいやま!」
「もうすぐだ」
やがてバスがゆっくりと減速する。
「まもなく白川郷でございます」
ドアが開く。
一歩外に出た瞬間、空気が違う。
「……澄んでる」
夫が無意識に言う。
ひんやりと透明な空気。
遠くに広がる合掌造りの屋根。
まだ見頃の紅葉が、山を彩っている。
「わあああ……」
結が声を上げる。
「ほんものだ……」
妻は静かに夫の横に立つ。
「少し歩きましょう。全体が見える場所があるんです」
三人で坂道を上る。
木々の間を抜け、少し高台へ。
「もうすぐよ」
夫は無言で歩く。
そして――
視界が一気に開ける。
合掌造りの家々が点在する村。
川が流れ、紅葉に囲まれた景色。
まるで絵画のような風景。
「……」
夫は立ち止まる。
言葉が出ない。
ただ、見つめる。
「パパ?」
結が不思議そうに見上げる。
夫はゆっくり息を吐く。
「……すごいな」
それだけだった。
しばらく、本当に声が出なかった。
妻はその横顔を見つめる。
都会でいつも冷静な夫。
滅多に感情を表に出さない人。
その人が、ただ景色に見入っている。
妻はそっと言う。
「お誕生日、おめでとう」
静かな風が吹く。
夫はゆっくりと妻を見る。
「……今日だったな」
「はい。35歳」
結が元気に言う。
「パパ、おたんじょうびおめでとう!」
小さな手が夫のコートを引く。
夫はしゃがみ、結を抱き上げる。
「ありがとう」
そして妻を見る。
「……ここを選んだのか」
「あなたに、この景色を見せたくて」
夫はもう一度、村全体を見渡す。
(これを、俺のために)
胸の奥が熱くなる。
35歳。
仕事に追われ、責任に追われる日々。
だが今。
隣には妻。
腕の中には娘。
そして目の前には、息をのむ景色。
「……来てよかった」
夫は静かに言う。
「本当に」
妻の目が少し潤む。
「喜んでくれました?」
夫は小さく笑う。
「言葉が出なかっただろう」
「はい」
「それが答えだ」
結が両手を広げる。
「パパ、ここすごいね!」
「ああ」
夫は娘を抱いたまま、景色を見つめる。
(俺は、十分すぎる)
35歳の誕生日。
妻と娘に祝われ、
この景色の中に立っている。
夫はその喜びを、静かに噛み締めていた。




