思い出の缶コーヒー
午後のやわらかな日差しのなか、結が小さな手で夫の指を引いた。
「パパ、のどかわいた」
その一言で、夫は足を止める。
少し先に、自動販売機が並んでいるのが見えた。
「よし、何か買おう」
結の目線に合わせてしゃがみながら言い、立ち上がって自販機の前に立つ。
並んだ商品を眺めていると、ふと、見慣れないメーカーの列の中に、黒い缶があった。
――ブラックコーヒー。
そのデザインに、指が止まる。
(……これ)
思わず、息がわずかに止まった。
社会勉強だと称して入った、あの一年間の会社。
自分の知らない世の中というものを知る場所だった。
新入社員の頃、
教育係だったのが――彼女だった。
あの頃の彼女は、今より淡々としていた。
無駄な笑顔も、馴れ合いもないが
必要なことを正確に、静かに、でも寄り添いながら教える人だった。
(ただ俺に興味なんて、まるでなかったな)
それは痛いほどわかっていた。
ビジネスマナーを叩き込まれ、資料のまとめ方を何度も修正されながらも、ときには褒めてもくれた。
「ここをこうするともっと良くなるんじゃないかしら」
厳しいときもあったが常に寄り添ってくれた。
そして自分の出来を見ていてくれた。
そして、ときどき。
「……お疲れ様」
そう言って、ぽんと机に置かれたのが、このブラックコーヒーだった。
(あの人は飲まないのに)
自分がブラックしか飲まないことを、いつの間にか把握していた。
何も言わない。
ただ、さりげなく。
あの頃の自分は、ただそれだけで胸が熱くなった。
好きだと自覚したのは、いつだったか。
指導されている最中だったかもしれない。
それとも、缶コーヒーを受け取った瞬間だったか。
――どうでもいい。
大事なのは、あの一年で、自分は確実に変わったということだ。
夫は迷わず、その缶を押す。
ガコン、と落ちる音。
結にはジュースを渡し、自分はその黒い缶を握る。
ベンチに並んで座る。
結が嬉しそうにストローをくわえている横で、夫はゆっくりとプルタブを開けた。
プシュッ。
一口。
苦い。
変わらない味だ。
(……あの時と同じだな)
社会に出たばかりの、自分。
ただ、妙に負けず嫌いで、無駄にプライドだけは高かった。
あの人は、そんな自分を甘やかさなかった。
だが、見捨てもせず寄り添ってくれた。
あの一年がなければ、今の自分はない。
独立し、成功し、家庭を持ち、
そして今、隣には娘がいる。
結が顔を見上げる。
「パパ、にがい?」
夫は少しだけ笑う。
「苦いな」
「おいしいの?」
一瞬、考える。
あの頃は、ただ苦いだけだった。
背伸びの味だった。
だが今は違う。
「ああ。悪くない」
結は「ふーん」と言って、またジュースに戻る。
夫は空を見上げる。
(あの人は、覚えているだろうか)
新入社員だった自分に、缶コーヒーを渡したことを。
ブラックしか飲まない生意気な後輩を。
あの時は、振り向きもしなかった。
それでよかった。
追いかける時間が、自分を強くした。
そして今。
あの先輩は、自分の妻だ。
家ではブラックを飲まない彼女。
それでも、昔と変わらず、自分の好みは把握している。
(俺は、あの人に育てられたようなものだな)
経営も。
覚悟も。
そして、愛するということも。
苦味が喉を通る。
あの頃より、少しだけまろやかに感じるのは、
自分が強くなったからか。
それとも――守るものができたからか。
隣で、結が小さな手を夫の腕に絡めてくる。
「パパ、つぎはどこいく?」
夫は缶を軽く振り、残りを飲み干す。
「どこでもいい。結が行きたいところに」
そう言いながら、心の奥で静かに思う。
(あの一年があったから、今がある)
あの苦い缶コーヒーの味は、
自分の原点だ。
そして、あの人との始まりの味でもある。




