娘で良かった理由
その日の夜。
運動会の余韻がまだ体に残るまま、夫婦は寝室で並んでいた。
窓の外には、都会の夜景。
室内はやわらかな間接照明だけが灯っている。
夫は枕に背を預け、妻はその腕の中にいる。
しばらく静かな時間が流れたあと、妻がぽつりと言った。
「……まだ残ってます?」
「何がだ」
「おんぶの感覚」
夫はわずかに息を吐く。
「ああ」
短く、しかし確かに。
「背中が覚えている」
妻は夫の胸に指を滑らせる。
「重かったですか?」
「重い、というより」
少し考える。
「大きくなった、と思った」
「私もそう思った」
「毎日見ているはずなのにな」
「ええ。急に成長したみたいに感じて」
夫の腕が自然に妻を引き寄せる。
「しがみつく力が強かった」
「結、必死でしたものね」
「ああ」
ほんのわずかに、夫の口元が緩む。
「嬉しそうだった」
「あなたも」
「……そうか?」
「ええ。走りながら、少し笑ってましたよ」
「無意識だ」
「でしょうね」
妻はくすりと笑う。
少しの沈黙。
そして、ためらいがちに。
「ねえ」
「なんだ」
「もう一人くらい、子ども……ほしかった?」
夫は即答する。
「いや」
迷いはない。
「結だけで充分だ」
妻は顔を上げる。
「本当に?」
「結婚して四年目だった」
低い声。
「あの時、授かった」
「……ええ」
「奇跡だった」
その言葉に、重みがある。
「これ以上望むのは、違う」
「違う?」
「欲張りだ」
妻は静かに頷く。
「あなたらしいですね」
「現実的なだけだ」
少しの間。
そして夫が続ける。
「それに」
「それに?」
「娘で良かった」
妻は目を瞬かせる。
「どうして?」
夫は視線を逸らしながら言う。
「息子だったら」
「だったら?」
「嫉妬の対象になっていた」
妻が思わず笑う。
「息子にまで?」
「当然だ」
真顔。
「今日の大玉転がしも」
「はい」
「お前と息子で出ていただろう」
「ありえますね」
「俺はビデオを回していた」
「ちゃんと撮ってくれそうです」
「撮る」
間髪入れずに。
「だが」
「だが?」
「内心、面白くない」
妻が肩を震わせる。
「想像してるんですか?」
「想像できる」
夫は続ける。
「お前が息子と並んで大玉を押す」
「……」
「笑いながら」
「……」
「俺はそれを、嫉妬しながら撮っている」
妻は小さく吹き出す。
「あなた、本当に独占欲強いですね」
「自覚している」
「息子ですよ?」
「関係ない」
即答。
「お前が誰かと並ぶのを見るのは、あまり好きではない」
「それが息子でも?」
「息子でもだ」
静かながら、揺るがない声。
妻はしばらく夫を見つめる。
そして柔らかく笑う。
「でも、きっと息子でも良い父親になってましたよ」
「どうだか」
「嫉妬しながらも、全力で応援して」
「……」
「ビデオも完璧に撮って」
「それは当然だ」
「そして帰ったら、息子を褒める」
夫は少し考え、息を吐く。
「否定はしない」
「ほら」
妻は夫の胸に頬を寄せる。
「あなたはちゃんと父親です」
夫は妻を抱き寄せる。
「だが」
「はい?」
「結で充分だ」
その声は静かで、確信に満ちている。
「奇跡は一度でいい」
「……」
「今あるものを守る。それでいい」
妻はそっと頷く。
「私もそう思います」
夫は妻の髪に触れる。
「それに」
「まだあります?」
「俺が一番守りたいのは、お前だ」
妻の目がやわらぐ。
「知っています」
「だから娘で良かった」
「どうして?」
「俺と張り合う相手が増えなくて済む」
妻が笑う。
「張り合う気だったんですか」
「当然だ」
「負けず嫌いですね」
「お前の隣は、俺の場所だ」
低く、まっすぐな声。
妻は優しく言う。
「息子でも、あなたの場所は変わりませんよ」
「……そうか?」
「ええ。だって私の隣は、あなたですから」
夫は一瞬、言葉を失う。
そして小さく息を吐く。
「……なら問題ない」
妻は微笑む。
「でも、結だけで充分ですね」
「ああ」
今日背中に感じた、あの重み。
確かな成長。
そして今、腕の中の温もり。
夫は静かに言う。
「これでいい」
妻も頷く。
夜景が、二人を静かに包んでいた。




