表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨のち晴れ  作者: ありり
186/311

初めての運動会②

十月最初の土曜日。


澄んだ秋空の下、幼稚園の園庭は朝からにぎやかだった。


マンションエントランスに現れたのは――ジャージ姿の夫婦。


「……やっぱり少し落ち着かないわ、この格好」


妻はネイビーのジャージの袖を引っ張る。


夫は黒のスポーツジャージに身を包み、片手にはビデオカメラ。もう片方の手には三脚。


「問題ない」


「問題あります。あなた、妙に本気よ」


その背後から、佐川がにこやかに言う。


「旦那様、朝からずいぶん気合が入っていらっしゃいますね」


夫は当然のように答える。


「当たり前だ」


「もう三脚まで」


「最前列を取る」


きっぱり。


佐川がくすっと笑う。


「場所取りはすでに始まっておりますが?」


「負ける気はない」


妻が小声で言う。


「運動会でそんな勝負しなくていいんです」


夫は腕時計を確認する。


「結の出番を一秒も逃さない」


その言葉に、妻は小さく微笑んだ。


***


幼稚園に到着すると、園庭はすでに保護者でいっぱいだった。


「……やっぱり目立ちますね」


妻がそっと囁く。


夫のジャージ姿は、普段のスーツ姿とはまた違う意味で人目を引いていた。すらりとした体格、整った横顔。


周囲のご夫人たちの視線がちらちらと向く。


「……見られてますよ」


「構わん」


夫は淡々と三脚を設置しながら答える。


「今日は結のために来ている」


その横顔は真剣そのものだった。


妻は少しだけ誇らしさを覚えながら、隣に立つ。


やがて園児たちの入場。


「いた!」


妻が小さく声をあげる。


年少クラスの列の中、結が一生懸命歩いている。少し大きめの帽子、きちんと着た体操服。


夫の表情がふっと柔らぐ。


「……あんなに小さかったのにな」


「ほんとうに」


音楽が流れ、お遊戯が始まる。


結は少しぎこちなく、それでも一生懸命に腕を伸ばし、くるりと回る。


「かわいい……」


思わずこぼれる妻の声。


夫もカメラ越しに、思わず微笑んでいた。


「ちゃんと覚えているな」


「昨日も家で練習してましたよ」


結がこちらに気づき、にこっと手を振る。


夫は無意識に小さく手を振り返す。


「……大きくなったな」


ぽつりと呟く。


妻が静かに同調する。


「ええ。もう年少さんだもの」


***


そして、いよいよ親子大玉転がし。


アナウンスが流れる。


「年少クラス、親子大玉転がしの参加の保護者の皆さんは前へどうぞ」


妻の表情が一瞬でこわばる。


「……きました」


「緊張しているのか」


「結よりしてます」


「大丈夫だ」


結が元気に言う。


「ママ、いこ!」


妻はしゃがんで目線を合わせる。


「転んだらどうしよう」


「ころばないよ!」


「ママが大玉に転がされたら?」


「パパがたすける!」


即答。


夫が無言で妻の手を取る。


「行け」


「……はい」


その大きな手の温もりに、少しだけ心が落ち着く。


「あなた、見ていてくださいね」


「当然だ」


「本当に助けに来ないでくださいよ?」


「状況次第だ」


妻は苦笑しながら、結とスタート位置へ向かった。


大きな赤い大玉が目の前にある。


「おおきいね!」


「……大きいわね」


ピストルの音。


「よーい、スタート!」


歓声が上がる。


「ママ、いっしょに!」


「うん、押すわよ!」


二人で必死に大玉を押す。


思ったより重い。


「おっと……!」


妻の足が少しもつれる。


観客席で夫がはっと息を呑む。


一歩、踏み出しかける。


だが――


「だいじょうぶ!」


結がぐっと大玉を押す。


妻も踏ん張る。


「いける……!」


なんとか体勢を立て直し、再び前へ。


「もうちょっと!」


「がんばれー!」


周囲の声援の中、夢中で押し続ける。


そして――


「はい、次の方へ!」


無事にバトンタッチ。


妻はその場にしゃがみ込む。


「はぁ……!」


結が満面の笑みで抱きつく。


「できたね!」


「できたわね!」


二人とも汗だくで、それでも顔は輝いている。


観客席から夫が歩み寄る。


「よくやった」


その声は低く、しかし柔らかい。


「転びませんでしたよ」


「見ていた」


「途中、来ようとしましたよね?」


「……一瞬な」


結が夫に飛びつく。


「パパ!ママすごかった!」


夫は妻を見る。


「見事だった」


その一言に、妻の胸が熱くなる。


「結と一緒に押せて、楽しかった」


結が頷く。


「またママとでたい!」


妻は結を抱きしめる。


「うん、また一緒に出ましょうね」


夫は二人を見つめながら、静かに言う。


「本当によくやった」


秋空の下、達成感に満ちた三人の笑顔が並んでいた。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ