初めての運動会②
十月最初の土曜日。
澄んだ秋空の下、幼稚園の園庭は朝からにぎやかだった。
マンションエントランスに現れたのは――ジャージ姿の夫婦。
「……やっぱり少し落ち着かないわ、この格好」
妻はネイビーのジャージの袖を引っ張る。
夫は黒のスポーツジャージに身を包み、片手にはビデオカメラ。もう片方の手には三脚。
「問題ない」
「問題あります。あなた、妙に本気よ」
その背後から、佐川がにこやかに言う。
「旦那様、朝からずいぶん気合が入っていらっしゃいますね」
夫は当然のように答える。
「当たり前だ」
「もう三脚まで」
「最前列を取る」
きっぱり。
佐川がくすっと笑う。
「場所取りはすでに始まっておりますが?」
「負ける気はない」
妻が小声で言う。
「運動会でそんな勝負しなくていいんです」
夫は腕時計を確認する。
「結の出番を一秒も逃さない」
その言葉に、妻は小さく微笑んだ。
***
幼稚園に到着すると、園庭はすでに保護者でいっぱいだった。
「……やっぱり目立ちますね」
妻がそっと囁く。
夫のジャージ姿は、普段のスーツ姿とはまた違う意味で人目を引いていた。すらりとした体格、整った横顔。
周囲のご夫人たちの視線がちらちらと向く。
「……見られてますよ」
「構わん」
夫は淡々と三脚を設置しながら答える。
「今日は結のために来ている」
その横顔は真剣そのものだった。
妻は少しだけ誇らしさを覚えながら、隣に立つ。
やがて園児たちの入場。
「いた!」
妻が小さく声をあげる。
年少クラスの列の中、結が一生懸命歩いている。少し大きめの帽子、きちんと着た体操服。
夫の表情がふっと柔らぐ。
「……あんなに小さかったのにな」
「ほんとうに」
音楽が流れ、お遊戯が始まる。
結は少しぎこちなく、それでも一生懸命に腕を伸ばし、くるりと回る。
「かわいい……」
思わずこぼれる妻の声。
夫もカメラ越しに、思わず微笑んでいた。
「ちゃんと覚えているな」
「昨日も家で練習してましたよ」
結がこちらに気づき、にこっと手を振る。
夫は無意識に小さく手を振り返す。
「……大きくなったな」
ぽつりと呟く。
妻が静かに同調する。
「ええ。もう年少さんだもの」
***
そして、いよいよ親子大玉転がし。
アナウンスが流れる。
「年少クラス、親子大玉転がしの参加の保護者の皆さんは前へどうぞ」
妻の表情が一瞬でこわばる。
「……きました」
「緊張しているのか」
「結よりしてます」
「大丈夫だ」
結が元気に言う。
「ママ、いこ!」
妻はしゃがんで目線を合わせる。
「転んだらどうしよう」
「ころばないよ!」
「ママが大玉に転がされたら?」
「パパがたすける!」
即答。
夫が無言で妻の手を取る。
「行け」
「……はい」
その大きな手の温もりに、少しだけ心が落ち着く。
「あなた、見ていてくださいね」
「当然だ」
「本当に助けに来ないでくださいよ?」
「状況次第だ」
妻は苦笑しながら、結とスタート位置へ向かった。
大きな赤い大玉が目の前にある。
「おおきいね!」
「……大きいわね」
ピストルの音。
「よーい、スタート!」
歓声が上がる。
「ママ、いっしょに!」
「うん、押すわよ!」
二人で必死に大玉を押す。
思ったより重い。
「おっと……!」
妻の足が少しもつれる。
観客席で夫がはっと息を呑む。
一歩、踏み出しかける。
だが――
「だいじょうぶ!」
結がぐっと大玉を押す。
妻も踏ん張る。
「いける……!」
なんとか体勢を立て直し、再び前へ。
「もうちょっと!」
「がんばれー!」
周囲の声援の中、夢中で押し続ける。
そして――
「はい、次の方へ!」
無事にバトンタッチ。
妻はその場にしゃがみ込む。
「はぁ……!」
結が満面の笑みで抱きつく。
「できたね!」
「できたわね!」
二人とも汗だくで、それでも顔は輝いている。
観客席から夫が歩み寄る。
「よくやった」
その声は低く、しかし柔らかい。
「転びませんでしたよ」
「見ていた」
「途中、来ようとしましたよね?」
「……一瞬な」
結が夫に飛びつく。
「パパ!ママすごかった!」
夫は妻を見る。
「見事だった」
その一言に、妻の胸が熱くなる。
「結と一緒に押せて、楽しかった」
結が頷く。
「またママとでたい!」
妻は結を抱きしめる。
「うん、また一緒に出ましょうね」
夫は二人を見つめながら、静かに言う。
「本当によくやった」
秋空の下、達成感に満ちた三人の笑顔が並んでいた。




