初めての運動会①
九月の夕方。
玄関ドアが開く音がした瞬間――
「ぱぱぁーーーっ!!」
いつもより何倍も大きな声で、結が走ってきた。小さな体が、全力で夫の脚に飛びつく。
「……どうした、今日はやけに元気だな」
クールに言いながらも、自然と口元が緩む夫。
「だってね!だってね!もうすぐうんどうかいなんだよ!」
「運動会?」
「うん!十月の、さいしょの、どようび!」
興奮で言葉がところどころ飛びながらも、一生懸命説明する結。
リビングから妻が顔を出す。
「おかえりなさい。今日、園でその話をずっとしていたみたい」
「なるほど。それでこのテンションか」
夫はネクタイを緩めながら、結を抱き上げた。
「で、結は何に出るんだ?」
結は指を折りながら数え始める。
「えっとね、おゆうぎ!それからね、パパとママとやるのがふたつ!」
「親子競技か」
「うん!おやこおおだまころがしとね、あとね……」
ぱっと顔を輝かせる。
「おんぶリレー!」
夫の眉がわずかに上がる。
「……おんぶリレー?」
「結をおんぶして、びゅーってはしるの!」
「ほう」
妻が小さく苦笑する。
「親子競技が二つあるんです。保護者が出ないといけなくて」
結は夫の顔を両手で挟む。
「パパ、くるよね?おしごとじゃない?」
「その日は休日だ。もちろん行く」
「ほんと!?」
「約束だ」
結はきゃああっと歓声をあげ、夫の首にぎゅっと抱きついた。
「じゃあね、パパとママでひとつずつ出てね!」
「……ひとつずつ?」
夫が妻を見る。
妻は視線を逸らし、控えめに咳払いした。
「わ、私は……その……」
結がじっと見上げる。
「ママもいっしょにでたい」
「……う」
完全に詰まる妻。
「私、運動音痴なの。走るのも遅いし……」
「ママ、だいじょうぶだよ!ころんでも、結が『がんばれー!』っていう!」
「それはそれでプレッシャーなんだけど……」
夫が静かに口を挟む。
「出ればいいだろう」
「簡単に言わないでください」
「結が望んでいる」
妻は結を見る。きらきらした期待の目。
観念したように小さく息を吐く。
「……わかりました。じゃあ、大玉転がしのほうに出ます」
「おおだまころがし!」
結がぴょんぴょん跳ねる。
「パパはおんぶリレーね!」
「了解だ」
即答する夫。
妻は夫を見上げる。
「あなた、走るの本気で走りますよね」
「当然だ」
「加減してくださいよ?」
「多少は無理をする。だが転ばない」
その自信満々な言い方に、妻は少し安心し、少し不安になる。
「……私は大丈夫でしょうか」
「何がだ」
「大玉、転がせるかしら。あれ、すごく大きいんですよ?」
「転がせばいいだけだろう」
「転がせなかったら?」
「押せ」
「押しても動かなかったら?」
「体重をかけろ」
「それで私が大玉に転がされたらどうするの」
一瞬、夫が想像してしまう。
巨大な赤い大玉に押され、尻もちをつく妻。
無表情を保とうとするが、わずかに口元が緩む。
「……その時は」
「その時は?」
「助けに行く」
妻がじっと見る。
「競技中ですよ?」
「関係ない」
「親子競技ですよ?」
「妻が転がされているのを見て黙っているほど冷酷ではない」
結がきょとんとする。
「ママ、ころがされるの?」
「ころがされません!」
即座に否定する妻。
夫が淡々と続ける。
「大丈夫だ。俺が見ている」
その一言に、妻の肩の力が少し抜ける。
「……見ているだけ?」
「必要なら、すぐ動く」
結が両手を広げる。
「じゃあね、パパはびゅーってはしって、ママはごろごろして、結はおどる!」
「ごろごろはしません」
「するかもしれないだろう」
「しません!」
三人のやり取りに、部屋の空気がやわらかくなる。
結が夫の胸に顔をうずめる。
「パパとママがいっしょにでるの、うれしい」
夫は結の背を軽く撫でる。
「結のためだ」
妻もそっと結の頭を撫でる。
「頑張りましょうね、三人で」
夫は静かにうなずく。
十月最初の土曜日。
その日の光景を、それぞれが少しずつ思い描きながら――
九月の夜は、穏やかに更けていった。




