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雨のち晴れ  作者: ありり
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はじまりのエプロン

リビング。夜景が大きな窓いっぱいに広がっている。


結はとっくに眠り、佐川も自室へ下がった後。

静まり返った空間。


ソファに腰掛け、テーブルランプの灯りの下で、妻がベージュのエプロンを縫っている。だがその手つきは、どう見ても慣れていない。


「……それ、まだ直すのか」


低く落ち着いた声で、夫は向かいのソファから声をかけた。


妻は顔を上げず、淡々と答える。


「ええ。少しほつれただけですから」


針が布を通るたびに、ぎこちなく糸が引きつる。


「指、刺すぞ」


「もう二回刺しました」


「ほら見ろ」


夫はため息をつき、グラスを置いた。


「新しいのを買えばいい。いくらでもあるだろ」


妻はようやく手を止め、夫を見る。

昔と違い、怯えはない。ただ静かで、どこか頑固な目。


「これは、買い替えたくないの」


「ただのエプロンだ」


「ただの、ではありません」


その声に、わずかな熱が混じる。


「……思い出のエプロンなんです」


夫は眉をわずかに動かす。


「思い出?」


「ええ」


妻は布を撫でるように指先でなぞる。


「結婚する前……私がこの家の使用人だった頃。あなたが用意してくださった最初のエプロンです」


夫は即座に否定する。


「用意した、じゃない。支給しただけだ。仕事道具だろ」


「それでも」


妻は微笑んだ。

今の穏やかな笑みではなく、少しだけ昔を思い出すような表情で。


「私にとっては、あなたから“初めてもらったもの”でした」


「……」


「当時は、怖い社長でしたし」


「余計な一言だな」


「事実です」


くすりと笑う。


「でも、そのエプロンを渡されたとき、ちゃんと“この家の一員として必要とされている”気がしたの」


夫は何も言わない。


あの頃の夫は、必要だから側に置いた。

独占するために、逃げられないように、仕事という形で縛った。


だが彼女は、それを“もらった”と言う。


「だから、大切にしたいんです」


「……そうか」


それ以上は言わない。

言えば、余計な本音が出る。


内心は――正直、嬉しかった。


――俺が与えた“鎖”を、彼女は“贈り物”と呼ぶ。


なんとも都合のいい話だ。

だが、それでも。


針がまた危なっかしく布を刺す。


「貸せ」


「え?」


夫は立ち上がり、彼女の手からエプロンを取った。


「俺がやる」


「あなたが?」


「ボタンくらいは直せる」


「できるんですか」


「まあな」


夫は糸を通し、慣れた手つきで縫い始める。


妻がじっと見つめている。


「……なんだ」


「意外と器用ですね」


「意外は余計だ」


「ありがとう」


その声は、静かでやわらかい。


「大事なんだろ、それ」


「はい」


「なら、きれいに直す」


数分後。ほつれは綺麗に整った。


妻がそっと受け取り、胸に抱く。


「……ありがとう」


「大袈裟だ」


「大袈裟ではありません」


少し沈黙が落ちる。


夜景が瞬く。


夫は無意識に言葉を落とした。


「……そんなに思い入れがあるとは思わなかった」


「あなたは、覚えていないでしょう?」


「細かいことはな」


「私は覚えています。あの日、サイズを測られて、無表情で“これを使え”と渡されたことも」


「命令口調だったはずだ」


「はい。怖かったです」


「だろうな」


「でも」


妻は夫を見る。


「嬉しかった」


夫は視線を逸らした。


――本当に、敵わない。


その夜はそれ以上、何も言わなかった。


翌週。


夫は仕事帰りに、ひとつの箱を持って帰宅した。


リビングでくつろぐ妻の前に、無造作に置く。


「これだ」


「……?」


開けると、上質な生地の新しいエプロン。

形は似せてあるが、質も縫製も格段に良い。


「……」


「使うならこっちを使え。前のは保存用だ」


「保存用?」


「大事なんだろ」


妻はしばらく黙って、それを見つめる。


「……ずるいですね」


「何がだ」


「あなたは、こういうことをさらっとする」


「必要だからだ」


「そういうことにしておきます」


彼女は立ち上がり、古いエプロンを丁寧に畳んだ。


「これは、しまっておきます」


「そうしろ」


そして、新しいエプロンを身につける。


鏡越しに俺を見る。


「どうですか」


「似合ってる」


即答だった。


妻はわずかに目を細める。


「……ありがとう」


夫はソファに座り直す。


「古いのは処分するなよ」


「しません」


「絶対にだ」


「はい」


その答えを聞きながら、夫は思う。


――あの頃は、縛るための布だった。

――今は、繋がっている証だ。


――彼女がそれを大切にしてくれる限り、

――俺は何度でも新しいものを用意する。


――だが、最初の一枚だけは。


――きっと、俺にとっても特別なのだ。


挿絵(By みてみん)

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