社長と叱ってくれる人
九月のやわらかな陽射しが、公園の芝生を金色に染めていた。
滑り台を何度も滑った結が、ベンチに腰掛けた夫のもとへ駆け寄る。
「パパ、見てた? いちばん速かったよ!」
「ああ、見てた。風みたいだったな」
そう言って、夫はわずかに口元を緩める。そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。
画面を一瞥する。
「……悪い、少しだけ」
結はこくりと頷き、隣で大人しく座る。
夫は低い声で通話に出た。
「俺だ。……ああ、例の件か。資料はもう確認した。数字はそのままでいい。ただし、最終判断は俺がする」
少し間を置く。
「明日の朝一で動けと伝えろ。責任は俺が取る。……ああ、それでいい。以上だ」
通話は一分もかからず終わった。
結が不思議そうに見上げる。
「パパ、お仕事?」
「ああ、ちょっとな」
「パパって、会社でえらいの?」
夫は一瞬だけ空を見上げ、そして結に視線を戻す。
「偉いわけじゃない。たまたま社長っていうポジションにいるだけだ」
「しゃちょうって、いちばんえらいんじゃないの?」
「立場が上ってだけだ。偉いかどうかは別だ」
結はしばらく考えてから、また聞く。
「パパは会社で怒られないの?」
夫は小さく笑う。
「あまり怒られないな」
(……まあ、何か言われるとしたら相馬が進言してくるときくらいか)
脳裏に、淡々と資料を差し出しながら「社長、それは最善ではありません」と言う秘書の姿が浮かぶ。
(あいつくらいだな、遠慮なく言うのは)
「ねえパパ」
「ん?」
「アイス食べたい」
夫は腕時計を見る。まだ夕方には早い。
「そうか」
次の瞬間、夫は自然な動作で結をひょいと抱き上げた。
「近くに喫茶店があったな」
「やったー!」
結は両手を広げて笑う。
―――――
木の温もりのある喫茶店。
窓から差し込む光がテーブルを照らしている。
「何にする?」
メニューを開く結の目が輝く。
「……これ!」
指差したのは、アイスではなく、フルーツが山のように乗った豪華なパフェだった。
夫は一瞬だけそれを見て、そして何も言わずに頷く。
「それにするか」
「いいの?」
「ああ」
「やった!」
やがて運ばれてきたパフェは、結の顔ほどもある大きさだった。
「すごい……」
目を丸くする結。
夫はコーヒーを注文し、静かに湯気を見つめる。
「パパ」
「ん?」
「パパ、会社でも今みたいにこわい顔してるの?」
「怖い顔はしてないつもりだが」
「してるよ?」
結はくすくす笑う。
夫は少し考え、
「……仕事中はな、守るものが多いからな」
「守る?」
「会社も、人も。だから、気を抜かないだけだ」
結はよく分からないながらも、うん、と頷く。
「でも、パパは結のパパだもんね」
「そうだ」
夫は即答する。
「それが一番だ」
結は満足そうにパフェを頬張る。口元にクリームがつく。
夫は無言でナプキンを差し出した。
「ほら」
「ありがと」
夕方の光が少しずつ橙色に変わる頃、二人は店を出た。
―――――
タワマン最上階。
エレベーターの扉が開く。
玄関で佐川が穏やかに一礼した。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
「ただいま、佐川!」
結が駆け寄る。
リビングに入ると、妻が振り返った。
「遅かったですね」
穏やかな声だが、どこか芯がある。
「公園の帰りに喫茶店に寄った」
夫が淡々と言う。
「ゆい、パフェ食べたんだよ!」
妻の眉がわずかに動く。
「……夕飯前なんだから、早く帰ってきてって言いましたよね?」
夫は黙っている。
「それに、なんで食べてきてるんですか。時間を考えてください」
声は静かだが、確実に叱っている。
「……すまん」
夫は素直に言う。
妻は続ける。
「作ったものは残さず全部食べてもらいますからね」
「分かっている」
そのやり取りを見ていた結が、にやりと笑った。
「パパを叱る人、いたね」
夫は一瞬きょとんとし、そして小さく笑う。
「……ああ、いたな」
妻は腕を組みながらも、どこか柔らかい。
「あなたが一番時間を守らないんですから」
夫は結を見下ろす。
「会社ではあまり怒られないが、家では違うな」
「ふふ」
結は嬉しそうに笑う。
夫は内心思う。
(会社では俺が判断する。責任も俺が取る。だが――)
視線を妻に向ける。
(ここでは違う。ここでは、俺はただの夫で、父親だ)
「夕飯は何だ?」
「あなたの好きな煮込みです」
「……全部食べる」
「当然です」
佐川が微笑みながら言う。
「今日は少し量を増やしておきました」
夫は軽く息を吐き、しかし口元は緩んでいる。
結が父の手を握る。
「パパ、ちゃんと食べてね?」
「ああ」
夫は結の頭を撫でる。
「約束だ」
リビングには、穏やかな灯りがともっていた。
社長でもなく、指示を出す立場でもなく。
ただ、“俺”が帰る場所。
その空気の中で、夫は静かに笑った。




