もう一度、あなたと手をつなぐ②
朝の光がタワマンの窓から差し込む。
「ママ!きょうはパパもいっしょだよね!?」
結はいつもより早く起き、制服に袖を通しながら何度も確認する。
「そうよ。パパ、今日は少しゆっくり出るんですって」
鏡の前でネクタイを締めていた夫が、低い声で答える。
「結、急がなくても幼稚園は逃げない」
「でもはやく行きたいの!」
その様子を、エプロン姿の佐川が穏やかに見守る。
「お嬢様、髪を整えますね。今日は特別ですものね」
「うん!パパとママとてをつなぐの!」
夫の手が一瞬止まる。
妻はネイビーの長袖ワンピースの裾を整えながら、少しだけ夫を見る。
昨日の約束を思い出して、胸が静かに高鳴る。
玄関。
「いってらっしゃいませ」
佐川が深く一礼する。
結が右手で夫、左手で妻の手を握る。
「しゅっぱーつ!」
三人の影が朝日に伸びる。
――
幼稚園までの道。
夫はスーツ姿。白いワイシャツに整った黒のジャケット。
隣で揺れるネイビーのワンピース。落ち着いた色合いが新緑に映える。
周囲の視線が自然と集まる。
「見て…今日も素敵ね」
「やっぱりあのご主人、かっこいいわ…」
ひそやかな声が聞こえる。
結は気にせず、胸を張る。
「ゆいのパパだもん!」
夫はわずかに口元を緩める。
「……誇らしいのはこっちだ」
妻が小さく笑う。
「聞こえてるわよ」
幼稚園の門前。
「いってきまーす!」
結は元気よく駆けていく。
「結、転ぶな」
「はーい!」
先生に手を引かれ、園舎へ消えていく小さな背中。
門が閉まる。
周囲にはまだ何人か保護者がいる。
だが――夫は一瞬だけ周囲を見渡し、そして迷いなく妻の手を取る。
指を絡める。
しっかりと、恋人繋ぎ。
妻の瞳が驚きに揺れる。
「……いいんですか?」
「約束だろう」
声は低く、静か。
「人目は?」
「気にしない」
ほんの少しだけ、夫の耳が赤い。
妻は一歩寄り添い、肩を並べる。
「ありがとう」
穏やかな声。
「昨日から、ずっと楽しみにしていました」
夫は前を向いたまま答える。
「俺もだ」
公園へ続く道。
新緑の木漏れ日がふたりを包む。
足並みを揃え、ゆっくり歩く。
「こうして歩くの、久しぶりですね」
「結が生まれる前は、よく歩いたな」
「覚えてます?夜桜を見に行ったときも、ずっと手を繋いでた」
「離す理由がなかった」
妻はくすっと笑う。
「今もないわ」
夫の指が、少し強く絡む。
公園のベンチの前で立ち止まる。
妻が空を見上げる。
「ねぇ」
「ん?」
「私たち、おじいちゃんとおばあちゃんになっても……手を繋いでいてほしいな」
静かな風が吹く。
夫は少しだけ目を細める。
「……皺だらけでもか」
「はい」
「歩くのが遅くなっても?」
「ゆっくり歩けばいいです」
「周りに笑われても?」
「今も見られてるでしょ?」
いたずらっぽい目。
夫は小さく息を吐き、そして真っ直ぐ妻を見る。
「離すつもりはない」
短い言葉。
でも重い。
妻の目が柔らかく揺れる。
「よかったです」
「ただし」
「?」
「その頃も、今日みたいに俺の隣を歩け」
「もちろんです」
ふたり、同時に微笑む。
再び歩き出す。
夫が言う。
「また時間を調整する」
「え?」
「こういう時間を、定期的に作る」
「ほんと?」
「仕事より大事なものを、間違えるつもりはない」
妻は胸がいっぱいになり、夫の腕に少しだけ寄り添う。
「嬉しいです」
遠くに、黒塗りの高級車が見える。
運転手が静かに待っている。
現実が近づく。
夫は名残惜しそうに一瞬だけ手を見る。
そして、ゆっくりと離す――と思いきや。
車の直前まで、しっかり握ったまま。
「仕事、頑張ってくださいね」
「帰ったら、また握る」
「約束?」
「ああ」
夫は車に乗り込む前、もう一度だけ妻を見る。
ネイビーのワンピースが風に揺れる。
(何年経っても、隣にいるのはこの人だ)
ドアが閉まる。
車が静かに走り出す。
妻は小さく手を振る。
その指先には、さっきまで絡んでいた温もりが残っている。
そして夫も、車内でそっと自分の手を見る。
(おじいちゃんになっても、か……悪くない)
いつもより少しだけ柔らかな表情で、仕事へ向かう夫だった。




