思い出を増やす男
挙式から二週間後。
八月の終わり。
結の夏休みが終わり、幼稚園が再開した朝は相変わらず慌ただしい。
「ママ!くつしたどこ!」
「ソファの下見て!」
「ないー!」
「ありますよ、結お嬢様」
佐川が静かに拾い上げる。
「ここに」
「さがわ、ありがとう!」
キッチンではトーストの匂い。
リビングでは小さな足音。
夫はネクタイを締めながら、その喧騒を眺めていた。
「結、今日は泣くなよ」
「なかない!」
「昨日は少し泣いただろう」
「ちょっと!」
妻が結の髪を整える。
「はい、できた。姿勢」
「ぴーん!」
ようやく一息。
夫はふと足を止める。
リビングの壁。
並んだ二枚の写真。
白無垢。
ウェディングドレス。
朝の光が柔らかく当たっている。
夫は腕を組み、満足そうに頷く。
「……いいな」
結がとことこ近づく。
「パパ、またみてるの?」
「見る」
「ママ、きれい?」
「きれいだ」
結は背伸びして写真を覗く。
「ゆい、ここいる!」
三人で写っている写真を指差す。
「真ん中だな」
「えへへ」
妻がバッグを持ちながら振り返る。
「あなた、浸ってないで。遅れますよ」
「まだ時間はある」
「ありません」
夫は写真を見たまま言う。
「やってよかった」
妻が少し照れる。
「そんなに?」
「当然だ」
佐川が穏やかに口を挟む。
「とても素敵でございました」
夫は頷く。
「次は結の七五三だな」
妻が即座に反応する。
「もう次ですか?」
「当然だ」
「気が早いですよ」
夫は振り返る。
「その時はお前も着物を着ろ」
「嫌です」
即答。
「もう白無垢も着て、ウェディングドレスも着て、お腹いっぱいです」
結が目を輝かせる。
「ママ、またきもの?」
「着ないの」
「着る」
夫がきっぱり。
妻が睨む。
「決めないでください」
「交渉する」
「しないでください」
佐川が小さく笑う。
「旦那様は、行事を大切になさいますから」
「大切にしすぎなのよ」
夫は真面目な顔。
「並んだ姿を残したい」
「写真ばっかり」
結が首を傾げる。
「しゃしん、だいじ?」
夫はしゃがんで目線を合わせる。
「大事だ」
「なんで?」
少し考え、夫は言う。
「今が、ちゃんと“あった”って残るからだ」
結はよく分からない顔で頷く。
「ふーん」
妻が腕を組む。
「七五三は結が主役よ」
「分かっている」
「私はいらないです」
「いる」
即答。
「また交渉するからな」
「本当にしつこいですよ」
「諦めない」
結が元気よく言う。
「ゆい、ママもきてほしい!」
妻が困ったように笑う。
「味方につけないで」
佐川が静かに言う。
「ご家族でお着物のお写真も、きっと素敵です」
「ほら」
夫がすかさず言う。
妻はため息をつく。
「囲まれてるわね、私」
夫は壁を見渡す。
白無垢。
ドレス。
三人の笑顔。
佐川が端で写っている写真。
少しずつ、増えている。
「増えたな」
「そうね」
「悪くない」
夫は静かに呟く。
「写真はいいな」
妻が問う。
「どうしてそんなに好きなの?」
夫は少し考える。
(変わったな、俺は)
仕事だけを追っていた頃。
結果だけを求めていた頃。
写真に立ち止まる自分など、想像もしなかった。
「家族を持ってから、変わった」
妻が驚く。
「自覚があるんですか?」
「ああ」
「どのあたり?」
「残したいと思うようになった」
「何をです?」
「時間も、笑顔も、全部だ」
結が手を挙げる。
「いっぱいふやす!」
夫は笑う。
「そうだ」
妻が柔らかく言う。
「欲張りですね」
「そうかもしれん」
夫はもう一度写真を見る。
白い二枚の間に、これから増えていく余白。
「これからも思い出を増やしたい」
静かな声。
「七五三もな」
「結局そこ」
妻が笑う。
「ほら、本当に遅れます」
夫は最後に頷く。
「いってくる」
「いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃい」
扉が閉まる。
リビングの壁には、家族の軌跡。
その前を通るたびに、
夫はきっと思う。
(悪くない)
いや――
(これが、俺の欲しかったものだったんだ)




