選んだ主君 〜相馬の胸の内〜
相馬——社長秘書。
タワマン最上階。
午前十時過ぎ。ガラス張りの窓から差し込む陽の光が、静かな廊下を淡く照らしている。
私は封筒を抱え、インターホンを鳴らす前に一瞬だけ足を止めた。
——十一年。
この扉の向こうにいる男と出会ってから、もうそれだけの年月が経った。
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出会いは、私が三十五歳の時だった。
外資系コンサルティング会社でシニアパートナー目前。
年収も肩書きも申し分ない。周囲からは「順風満帆」と言われていた。
私自身も、そのレールを疑ったことはなかった。
あの日までは。
「とんでもなく頭の切れる若者がいる」
同僚が半ば悔しそうにそう言った。
「まだ二十代前半だが、既に個人資産は桁違いだ。投資で築いたらしい。うちの上層部とも対等に話している」
興味が湧いた。
若さゆえの無謀か、あるいは偶然の成功者か。
見極めてやろう——それが最初の動機だった。
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初対面は、小さな喫茶店だった。
一目見た瞬間、私は理解した。
——違う。
まだ二十三歳。スーツ姿は若さが残る。だが目だけが、異様に冷静だった。
「あなたが相馬さんですか」
落ち着いた低い声。
「ええ。噂を聞きまして。少しお時間を」
「五分で十分です」
その言い方に、私はわずかに眉を上げた。
若者特有の尊大さではない。
本気で、五分あれば足りると思っている目だった。
議論は、圧倒的だった。
市場の読み。資金の流れ。リスク管理。
私が十年かけて磨いた理論を、彼は実践と数字で即座に覆していく。
「あなたは優秀だ」
彼は淡々と言った。
「だが、守りに入っている」
その一言が、胸を刺した。
「外資で安定した地位。悪くない選択だ。だが、退屈でしょう」
——見透かされた。
私は、その場で確信した。
この男の隣に立てるなら、人生はもっと面白くなる。
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数週間後、私は退職届を出した。
周囲は驚いた。
「なぜ、あんな若造のところへ?」
笑われもした。
だが、私の決意は揺らがなかった。
彼に告げた日のことを覚えている。
「あなたの秘書として仕えたい」
沈黙。
彼は私をまっすぐ見た。
「本気ですか」
「ええ」
「後悔しますよ。私の側は楽ではない」
「望むところです」
数秒の静寂ののち、彼は言った。
「では、明日から来い」
それが、始まりだった。
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秘書となってからの彼は、明確に変わった。
「相馬、この資料を三時間でまとめろ」
「今夜の会食、全て洗い直せ。相手の裏も取れ」
「この案件は切る。根回ししておけ」
迷いがない。
遠慮もない。
だが、その一つ一つの指示が、常に合理的だった。
私は経営戦略を練り、契約を詰め、時には裏交渉も担った。
プライベートの雑用もこなした。
「明日の早朝、空港まで車を用意しろ」
「家の件は外に漏らすな」
「彼女には余計な心配をさせるな」
彼の私生活も、私は管理した。
汚れ仕事もあった。
表に出せない調整。
潰さねばならない火種。
「相馬、処理しろ」
短い言葉。
私は頷くだけでいい。
忠誠とは、言葉ではない。
結果だ。
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インターホンが鳴り、ドアが開く。
「来たか、相馬」
十一年前と変わらぬ、冷静な声。
だが今は、最上階の主だ。
「書類です」
「そこに置け。午後の件は?」
「問題ありません。既に根回し済みです」
彼は一瞬だけ目を細める。
「さすがだ」
たったそれだけ。
だが、それで十分だった。
私は思う。
元の会社に残っていれば、安定した人生だっただろう。
だが、今のような高揚はなかった。
日々が戦場。
常に未来へ賭ける。
そして私は、まだこの男の頂点を見ていない。
——もっと先がある。
「相馬」
「はい」
「次の十年も、ついて来い」
命令口調のまま。
だが、その言葉は信頼だ。
私は静かに微笑んだ。
「仰せのままに、社長」
後悔はない。
これからも、この主君と未来を見てみたい。
そう心から思っている。




