八月の喫茶店
八月も半ばに差し掛かろうとしていた。
先週まで続いた佐川の件の余韻は、まだ家のどこかに残っている気もするが、最上階の空気は、少しずつ穏やかさを取り戻していた。
「いってらっしゃいませ」
エントランスで佐川が深く頭を下げる。
妻はキッチンから顔を出し、柔らかく微笑んだ。
「結、パパとちゃんと手を繋ぐのよ?」
「うん! パパ、早く行こ!」
小さな手が夫の大きな手を引く。
夫は低く、穏やかな声で応えた。
「そんなに急がなくても逃げない」
「だって暑いもん!」
「暑いからこそ、ゆっくり歩け」
そう言いながらも、娘の歩幅に合わせているあたりが、この男らしい優しさだった。
――――――
外は真夏の熱気に包まれている。
アスファルトの照り返しが強く、結は夫の腕にぴたりと寄り添った。
「パパぁ」
「なんだ」
結は、通りの角を指差す。
「あそこ!」
「……喫茶店か」
「暑いからあそこでアイス食べよ?」
夫は片眉をわずかに上げる。
「散歩が目的じゃなかったのか?」
結はにやっと笑った。
「バレた?」
「最初から怪しいと思ってた」
「えへへー」
夫は小さく息を吐き、しかし口元はわずかに緩んでいる。
「仕方ない。五分歩いたから合格だ」
「やったー!」
――――――
店内は冷房が効き、木目のカウンターと柔らかな照明が落ち着いた雰囲気を作っている。
夫はブラックコーヒーを。
結は、大きなチョコレートパフェを前に、目を輝かせた。
「すごーい!」
「落とすなよ」
「落とさないもん!」
スプーンを握りしめ、慎重に一口。
「おいしい〜!」
「そうか」
夫はコーヒーカップを口に運びながら、静かに娘を見守る。
結はしばらく夢中で食べていたが、ふと顔を上げた。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「もうすぐだよね?」
「何がだ」
「ママのウェディングドレス!」
夫の手が一瞬止まる。
「……覚えていたか」
「だって、ママがちょっと恥ずかしそうにしてたもん!」
「そうだな」
結は身を乗り出す。
「パパ、楽しみ?」
夫はカップをソーサーに戻し、ゆっくりと答えた。
「楽しみだ」
「どれくらい?」
「……かなり」
「かなりってどれくらい?」
「言葉にしなくていいくらいだ」
結はきゃっと笑う。
「パパ、絶対ドキドキするよ!」
「しない」
「するよ!」
「しない」
「するってば!」
夫は小さく微笑んだ。
「……少しはするかもしれない」
「やっぱり!」
結は満足そうにパフェをもう一口。
「ねえパパ」
「なんだ」
「ママ、きれいだよね」
「……ああ」
「世界一?」
夫は迷いなく答える。
「俺にとってはな」
結は嬉しそうに笑い、少しだけ真剣な顔になる。
「ママ、最近ちょっと忙しそうだったよね」
「……そうだな」
佐川の件で、妻は気丈に振る舞っていた。
家を守る立場として、感情を抑えて。
「だからね」
結は小さな声で言う。
「ママがドレス着たら、いっぱい“きれいだよ”って言ってあげてね」
夫は一瞬、娘を見つめた。
「お前は言わないのか」
「わたしは言うよ! でもパパが言うのが一番うれしいと思う」
その言葉に、夫は目を細めた。
「……よく分かっているな」
「えへへ」
夫はコーヒーを飲み干し、静かに言った。
「結」
「なあに?」
「ママはな、もう十分きれいだ」
「うん」
「でも、その日だけは……」
少しだけ声が低くなる。
「誰よりも幸せそうな顔をさせてやりたい」
結はぱっと笑顔になる。
「じゃあ、わたしも手伝う!」
「何を」
「ママをいっぱい笑わせる!」
夫は静かに頷いた。
「頼りにしている」
結は残りのパフェを食べながら、ふと窓の外を見る。
「パパ」
「ん?」
「ずっと三人でいようね」
その言葉は、無邪気でありながら、どこか強い願いが込められていた。
夫は娘の頭をそっと撫でる。
「当然だ」
「ほんと?」
「俺が守る」
結は満足そうに頷き、最後の一口を食べた。
店を出ると、夏の陽射しがまだ強い。
しかし、二人の影は並んで、まっすぐ伸びていた。
「パパ、帰ったらママに言おうね」
「何を」
「楽しみにしてるって」
夫は少しだけ空を見上げる。
青く高い、八月の空。
「ああ」
低く、確かな声で答えた。
「ちゃんと伝える」




