表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨のち晴れ  作者: ありり
176/311

八月の喫茶店

八月も半ばに差し掛かろうとしていた。

先週まで続いた佐川の件の余韻は、まだ家のどこかに残っている気もするが、最上階の空気は、少しずつ穏やかさを取り戻していた。


「いってらっしゃいませ」


エントランスで佐川が深く頭を下げる。

妻はキッチンから顔を出し、柔らかく微笑んだ。


「結、パパとちゃんと手を繋ぐのよ?」


「うん! パパ、早く行こ!」


小さな手が夫の大きな手を引く。

夫は低く、穏やかな声で応えた。


「そんなに急がなくても逃げない」


「だって暑いもん!」


「暑いからこそ、ゆっくり歩け」


そう言いながらも、娘の歩幅に合わせているあたりが、この男らしい優しさだった。


――――――


外は真夏の熱気に包まれている。

アスファルトの照り返しが強く、結は夫の腕にぴたりと寄り添った。


「パパぁ」


「なんだ」


結は、通りの角を指差す。


「あそこ!」


「……喫茶店か」


「暑いからあそこでアイス食べよ?」


夫は片眉をわずかに上げる。


「散歩が目的じゃなかったのか?」


結はにやっと笑った。


「バレた?」


「最初から怪しいと思ってた」


「えへへー」


夫は小さく息を吐き、しかし口元はわずかに緩んでいる。


「仕方ない。五分歩いたから合格だ」


「やったー!」


――――――


店内は冷房が効き、木目のカウンターと柔らかな照明が落ち着いた雰囲気を作っている。


夫はブラックコーヒーを。

結は、大きなチョコレートパフェを前に、目を輝かせた。


「すごーい!」


「落とすなよ」


「落とさないもん!」


スプーンを握りしめ、慎重に一口。


「おいしい〜!」


「そうか」


夫はコーヒーカップを口に運びながら、静かに娘を見守る。


結はしばらく夢中で食べていたが、ふと顔を上げた。


「ねえ、パパ」


「ん?」


「もうすぐだよね?」


「何がだ」


「ママのウェディングドレス!」


夫の手が一瞬止まる。


「……覚えていたか」


「だって、ママがちょっと恥ずかしそうにしてたもん!」


「そうだな」


結は身を乗り出す。


「パパ、楽しみ?」


夫はカップをソーサーに戻し、ゆっくりと答えた。


「楽しみだ」


「どれくらい?」


「……かなり」


「かなりってどれくらい?」


「言葉にしなくていいくらいだ」


結はきゃっと笑う。


「パパ、絶対ドキドキするよ!」


「しない」


「するよ!」


「しない」


「するってば!」


夫は小さく微笑んだ。


「……少しはするかもしれない」


「やっぱり!」


結は満足そうにパフェをもう一口。


「ねえパパ」


「なんだ」


「ママ、きれいだよね」


「……ああ」


「世界一?」


夫は迷いなく答える。


「俺にとってはな」


結は嬉しそうに笑い、少しだけ真剣な顔になる。


「ママ、最近ちょっと忙しそうだったよね」


「……そうだな」


佐川の件で、妻は気丈に振る舞っていた。

家を守る立場として、感情を抑えて。


「だからね」


結は小さな声で言う。


「ママがドレス着たら、いっぱい“きれいだよ”って言ってあげてね」


夫は一瞬、娘を見つめた。


「お前は言わないのか」


「わたしは言うよ! でもパパが言うのが一番うれしいと思う」


その言葉に、夫は目を細めた。


「……よく分かっているな」


「えへへ」


夫はコーヒーを飲み干し、静かに言った。


「結」


「なあに?」


「ママはな、もう十分きれいだ」


「うん」


「でも、その日だけは……」


少しだけ声が低くなる。


「誰よりも幸せそうな顔をさせてやりたい」


結はぱっと笑顔になる。


「じゃあ、わたしも手伝う!」


「何を」


「ママをいっぱい笑わせる!」


夫は静かに頷いた。


「頼りにしている」


結は残りのパフェを食べながら、ふと窓の外を見る。


「パパ」


「ん?」


「ずっと三人でいようね」


その言葉は、無邪気でありながら、どこか強い願いが込められていた。


夫は娘の頭をそっと撫でる。


「当然だ」


「ほんと?」


「俺が守る」


結は満足そうに頷き、最後の一口を食べた。


店を出ると、夏の陽射しがまだ強い。

しかし、二人の影は並んで、まっすぐ伸びていた。


「パパ、帰ったらママに言おうね」


「何を」


「楽しみにしてるって」


夫は少しだけ空を見上げる。


青く高い、八月の空。


「ああ」


低く、確かな声で答えた。


「ちゃんと伝える」


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ