元夫と再会、これから③
北海道・新千歳空港。
搭乗口の前で、相馬はスマートフォンを耳に当てていた。
低く、簡潔な声。
「……はい。対象者、現在入院中。身体状況から判断して、害はありません。接触による影響も確認されず。……ええ、問題なしです」
通話を切る。
その横顔はいつもの通り、冷静で隙がない。
少し離れた場所で、佐川が窓の外を見ていた。
曇り空の滑走路。北海道の空気は、どこか過去を思わせる匂いがした。
相馬が近づく。
「報告は済みました」
「……そうですか」
「社長はおっしゃっていました。
“佐川が無事ならそれでいい”と」
佐川は、わずかに目を伏せる。
「……過保護ですね」
「ええ。ですが、それがあの方です」
静かな間。
「後悔はありますか」
相馬の問いは、淡々としている。
佐川は小さく息を吐いた。
「……いいえ。言うべきことは言いました。
恨みは消えません。でも、もう私の人生はあの人のものではありません」
相馬は頷く。
「それで十分です」
搭乗案内が流れる。
歩き出す直前、相馬がふと足を止めた。
「佐川さん」
「はい?」
「これからもよろしくお願いします」
一瞬、佐川は驚いた顔をする。
「……それは、こちらの台詞です」
「私は社長に忠誠を誓っています。ですが、あなたにも……情があります」
少し照れくさそうに、しかし真剣に。
「同い年。同じ大学。同じ独身。
そして同じ主人に仕える身ですから」
佐川は、ほんの少しだけ笑った。
「ええ。これからも、よろしくお願いします。相馬さん」
二人は機内へと歩いていった。
⸻
一週間後。
八月初旬。
タワマン最上階。
昼下がりの光がリビングに落ちる。
佐川のスマートフォンが震えた。
差出人――北海道・高梨。
静かに画面を開く。
奥様
本日未明、元ご主人様が息を引き取られました。
最期は静かでございました。
文章は短く、丁寧だった。
佐川は目を閉じる。
長い時間、背負ってきた重さが、ふっと遠ざかる。
ノックの音。
「入れ」
低い声。
書斎に入ると、夫がデスク越しに彼女を見る。
「……連絡か」
「はい」
「どうだった」
佐川はまっすぐに答える。
「本日未明、亡くなったそうです」
沈黙。
夫の目が、わずかに細くなる。
「そうか」
短い一言。
だがそこには、複雑な感情が混じっていた。
「……終わりました」
佐川はそう言って、深く頭を下げる。
「ご配慮、ありがとうございました。」
夫は立ち上がり、ゆっくりと佐川の前に立つ。
「礼は不要だ。お前はこの家の人間だ」
その言葉に、佐川の喉が少し震える。
「それでも、申し上げます。
私はこれからも、この家に仕えます。
奥様とお嬢様、そして……旦那様に」
夫の視線が、柔らかくなる。
「そうか」
低く、確かな声。
「過去は終わった。
お前はもう、誰にも縛られない」
佐川は、ゆっくりと頷いた。
「はい」
その時――
「さがわー!」
元気な声が廊下から響く。
「さがわ! いっしょにえほんよもうー!」
結の声だった。
夫が小さく息を吐く。
「呼ばれているぞ」
「……はい」
扉へ向かう佐川の背中に、夫がもう一言。
「佐川」
振り返る。
「戻ってこい。いつも通りにな」
その言葉は命令ではなく、帰る場所の確認だった。
佐川は、静かに微笑む。
「はい、旦那様」
廊下へ出ると、結が駆け寄ってくる。
「さがわ、どこいってたの?」
「少しだけ、遠いところに」
「もういかない?」
小さな手が、佐川のエプロンを握る。
「ええ。もう大丈夫です」
結は満足そうに笑う。
「じゃあ、いつもどおりね!」
その笑顔を見た瞬間、佐川は確信する。
本当に、終わったのだと。
過去の鎖はほどけ、
目の前には、変わらない日常。
リビングからは、奥様の穏やかな声。
キッチンではコーヒーの香り。
窓の外には、夏の強い光。
佐川は結の手を取る。
「はい。いつも通りです」
静かなタワマン最上階。
物語は、大きな波を越え、
再び穏やかな日常へと戻っていくのだった。




