表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨のち晴れ  作者: ありり
170/311

突然の知らせ③

翌日 ――報告


朝の光が最上階のリビングを満たしていた。


夫は書斎でコーヒーを口にしながら、静かにスマートフォンを耳に当てている。


「……言え」


低い声。


受話口の向こうで相馬の落ち着いた声が続く。


『対象者、独り身です。離婚後、再婚歴なし。日雇い労働で生計を立てていた模様』


夫の表情は変わらない。


『現在は末期の癌。ステージⅣ。入院中。余命は長くないと推測されます』


「接触者は」


『確認できる限り、なし。親族の訪問履歴もありません』


わずかな沈黙。


『……孤独です』


夫は短く息を吐いた。


「分かった。」


通話が切れる。


静寂。


夫はしばらく窓の外を見つめ、佐川を呼んだ。



数分後。


佐川が静かに入室する。


「旦那様」


「座れ」


立ったままではなく、向かいの椅子を指す。


それだけで、報告が重いものだと分かる。


佐川はゆっくり腰を下ろした。


夫は感情を交えずに告げる。


「独り身だ。再婚はしていない」


佐川の指先がわずかに強張る。


「日雇いで生きてきた。今は末期癌で入院中。長くはない」


息が止まる。


「……そう、ですか」


「誰も見舞いに来ていない。接触履歴もない」


沈黙が落ちる。


窓の外では車の音が遠くに流れている。


佐川は視線を落としたまま、小さく呟く。


「……独り、ですか」


「そうだ」


夫の声は冷静だ。


「会いたいのなら会いに行けばいい」


佐川が顔を上げる。


「会わないなら、それでもいい」


「……」


「お前の気の済むようにしろ」


命令ではない。


許可でもない。


選択の委譲。


佐川は長く息を吸った。


「……お許しいただけるなら」


夫は黙って見ている。


「最後に、会いに行きたいと思います」


その声は震えていない。


「恨みが消えるとは思いません。ただ……自分の中で、終わらせたいのです」


数秒の沈黙。


「分かった」


即答だった。


「相馬を同行させる」


佐川は深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


「一人では行かせない」


その言葉に、保護と監視の両方が含まれている。


その瞬間だった。


――廊下の向こうに、わずかな気配。


夫の視線が扉へ向く。


無言で立ち上がり、ドアを開ける。


そこには――


床にうずくまる妻の姿。


両腕で身体を抱きしめ、呼吸が乱れている。


「……っ」


夫の目がわずかに揺れる。


「どうした」


妻は顔を上げる。


瞳が恐怖で濡れている。


「……生きてるの……?」


声が掠れている。


佐川の元夫。


その名を聞いただけで、過去が蘇ったのだ。


あの日。


二人きりの空間。


そして伸びてくる手......。


――恐怖は消えていない。


「また……来るんじゃないかって……」


震える声。


夫はすぐに膝をつき、妻を抱き寄せる。


「来ない」


低く、断言。


「俺がいる」


妻は胸元を掴む。


「怖い……」


夫の腕がしっかりと背中を包む。


「大丈夫だ」


声は柔らかい。


「俺が側にいる」


「……」


「誰にも触れさせない」


その言葉には、冷たい決意がある。


佐川はその場に立ち尽くしていた。


胸が締め付けられる。


自分の過去が、この家の傷を刺激している。


「奥様……」


小さく声をかける。


妻は震えながらも、佐川を見る。


そこに責める色はない。


ただ恐怖。


夫が妻の髪を撫でる。


「北海道には相馬が同行する」


妻がわずかに反応する。


「接触は管理下だ。俺の許可なしに近づくことはない」


「……ほんと?」


「ああ」


視線は揺らがない。


「俺が守る」


妻はゆっくりと夫の胸に顔を埋める。


呼吸が少しずつ落ち着いていく。


夫は佐川を見る。


その目は冷たいが、責めてはいない。


「行くなら、きちんと終わらせてこい」


佐川は深く頭を下げる。


「はい」


「この家に、影を持ち込むな」


「……承知いたしました」


夫は再び妻を抱き締める。


「怖いことは何もない」


低い声が静かに響く。


最上階の廊下は静まり返っている。


守る者。


終わらせる者。


それぞれの過去が、今、同じ空間で交差していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ