突然の知らせ②
七月末 揺れる夜
昼下がり。
リビングの空気はいつも通り穏やかだった。
結は床に広げた絵本に夢中になり、妻はソファで書類に目を通している。
だが、佐川の動きはわずかに硬かった。
グラスを置く音が、ほんの少しだけ強い。
妻が顔を上げた。
「……佐川」
「はい、奥様」
「何かあった?」
その声は冷たくはない。むしろ静かな気遣いが滲んでいる。
佐川は一瞬、視線を伏せる。
「いえ。何もございません」
「顔色がよくないわ」
「少し寝不足なだけです。結お嬢様が昨夜、何度か目を覚まされましたので」
嘘ではない。だが本当でもない。
妻はじっと見つめる。
四年前なら問い詰めただろう。だが今は違う。
「……そう。無理はしないで」
「ありがとうございます」
それ以上は聞かれなかった。
その優しさが、逆に胸を締めつける。
⸻
夜。
最上階の窓の外には、都心の光が宝石のように瞬いている。
家の中は静まり返り、妻と結は寝室にいる時間。
佐川は書斎の前に立っていた。
ノックを三回。
「入れ」
低く、落ち着いた声。
扉を開けると、夫はデスクに向かい書類を読んでいた。
ネクタイは緩められているが、姿勢は崩れていない。
「どうした」
視線は上げない。
佐川は静かに一礼する。
「……ご相談がございます」
数秒の沈黙。
夫はゆっくりとペンを置き、ようやく視線を向けた。
「話せ」
その目は感情をほとんど映さない。
佐川は胸の奥の重さを押し出すように言葉を紡ぐ。
「本日、私の屋敷に勤めていた元執事から連絡がございました。今彼は北海道に住んでいます」
「内容は」
「……元夫が、入院していると」
空気が、わずかに変わる。
夫の目が、わずかに細まった。
「場所は」
「病院名は、希望があれば教えると」
「お前は知りたいのか」
問いは短い。
佐川は一瞬、言葉を失う。
「……はい」
正直だった。
「会いたいわけではございません。ただ、状況を知りたいのです。生きているのか、どのような状態なのか……それを知らぬままでは」
言葉を選ぶ。
「……この家に、今のままの心でお仕えできないと感じました」
書斎に静寂が落ちる。
夫は椅子にもたれ、指を組んだ。
「過去を放置したまま、ここに立つことはできない、ということか」
「はい」
「恨みはあるか」
「……消えてはおりません」
「情は」
長い沈黙。
「……わかりません」
夫は目を逸らさない。
やがて、淡々と告げた。
「調べる」
佐川の喉がわずかに動く。
「状況が分かり次第、俺から伝える」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。お前はこの家の人間だ。管理責任は俺にある」
その言葉は温かくはない。
だが、揺るぎない。
夫はデスクの上のスマートフォンを手に取る。
短いコール音。
「相馬か」
低く、冷静な声。
『はい』
「北海道。○○市内の総合病院を中心に、入院患者を洗え。氏名は――」
夫は佐川の元夫の名を告げる。
「状態、債務状況、接触履歴。すべてだ」
『承知しました。即時動きます』
「結果は俺に直接報告しろ」
通話が切れる。
静寂。
夫は佐川を見る。
「ひとつ言っておく」
声は変わらず平坦。
「俺にとって最優先は妻だ」
佐川の背筋が伸びる。
「妻に害をなす者は、すべて排除する」
その言葉に一切の迷いはない。
「それは元夫だけではない」
視線が鋭くなる。
「お前も例外ではない」
空気が凍る。
佐川は一瞬、息を止めた。
「……承知しております」
声は震えなかった。
夫は続ける。
「お前が過去に引きずられ、この家に不利益をもたらす存在になるなら、その時は切る」
淡々とした宣告。
「だが」
わずかに間を置く。
「今のお前は違う」
「……」
「四年間、見てきた。だから調べる」
それは信頼というより、評価。
だが佐川には十分だった。
「ありがとうございます、旦那様」
「勘違いするな。情ではない。合理だ」
「はい」
夫は再び書類に視線を落とす。
「結果が出るまで、余計なことはするな。妻にも言うな。動揺させる必要はない」
「承知いたしました」
佐川は深く頭を下げ、静かに書斎を出る。
廊下は薄暗い。
遠く、寝室の扉の向こうに守るべき光がある。
――排除。
その言葉は冷たい。
だが同時に、守られているという事実でもあった。
佐川は胸に手を当てる。
過去と現在の境界線。
その判断を、彼に委ねた。
最上階の夜景は、何も知らぬまま静かに瞬いていた。




