突然の知らせ①
七月の終わり。
最上階の窓から差し込む光は、真昼の強さを帯びながらもどこか静かだった。
高層階特有の、地上とは切り離されたような静寂。
磨き上げられた床。整えられたリビング。規則正しく回る空調の音。
佐川は、いつものように廊下の花瓶の水を替えていた。
この家に来て、四年。
掃除、洗濯、結の世話、妻の調理補助。
仕事は多い。だが、苦ではない。
最初の頃は違った。
罵声。
冷たい視線。
「使えない」「遅い」「役立たず」と突き放す声。
それでも佐川は辞めなかった。
いや、辞められなかった。
辞める場所も、帰る家もなかったからだ。
だが今は違う。
奥様は静かな声で「ありがとう」と言う。
旦那様は多くを語らないが、佐川の働きを当然のように信頼している。
そして結は、無邪気に「さがわー」と抱きついてくる。
家族の一員。
そう呼ばれることに、まだ少し戸惑いながらも、佐川はその言葉を胸の奥で大切にしていた。
――その時。
ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。
一瞬だけ、鼓動が遅れる。
差出人の名前を見た瞬間、時間が止まった。
高梨
かつて佐川家に三十年以上仕えていた執事。
没落の後、北海道で静かに暮らしていると聞いていた。
佐川は周囲を見回す。
リビングには誰もいない。夫は仕事で外出、妻はキッチンで食事の支度、結は昼寝。
自室に入り、静かにドアを閉める。
深く息を吸い、メールを開いた。
⸻
奥様
ご無沙汰しております。
北海道で静かに暮らしておりますが、妻が入院いたしまして、日々見舞いに通っております。
そこで……思いがけない人物に再会いたしました。
元ご主人様でございます。
同じ病院に入院されているようでした。
声をかけようかとも思いましたが、過去の経緯を思い、控えました。
もし奥様がご希望でしたら、病院名をお伝えいたします。
⸻
視界が、わずかに揺れた。
元夫。
その言葉だけで、胸の奥に沈んでいた記憶が浮かび上がる。
豪奢だった屋敷。
華やかな宴。
そして――借金。
二億円。
保証人の印を押したあの日。
「すぐ返せる」「心配するな」と笑ったあの男。
やがて取り立て。
差し押さえ。
没落。
佐川家は崩れ落ち、彼女は金の借り先の家で使用人として働く立場になった。
それでも恨みだけで生きてきたわけではない。
生きるために、前を向くしかなかった。
スマートフォンを握る手に、じんわりと汗が滲む。
会いたいのか。
違う。
確かめたいのか。
それも違う。
ただ――終わっていない何かが、まだどこかにあるのだと知らされただけで、心がざわつく。
「……」
佐川は目を閉じる。
今の自分には、守るべき場所がある。
この家。
奥様。
旦那様。
結お嬢様。
ここでの四年間は、嘘ではない。
スマートフォンの画面をもう一度見つめる。
病院名を知るか。
知らないままでいるか。
指先が返信画面の上で止まる。
その時、遠くから結の寝返りの小さな声が聞こえた。
現実が、彼女を引き戻す。
佐川は、ゆっくりとスマートフォンを閉じた。
――この話は、まだ誰にも言わない。
奥様にも。
旦那様にも。
胸の奥に静かに沈めたまま、佐川は立ち上がる。
再び廊下へ出ると、最上階の窓から見える青空は、何事もないかのように広がっていた。
だが、佐川の中でだけ、
止まっていた時間が、わずかに軋み始めていた。




