女の深刻な悩みごと
七月末。
タワマン最上階のエントランスに、夜の静けさが満ちていた。
エレベーターの扉が静かに開く。
コツ、コツ、と革靴の音。
「おかえりなさいませ、旦那様」
最初に出迎えたのは、頭を下げる佐川だった。
その横から、ぱたぱたと小さな足音。
「パパー!」
結が飛びついてくる。
夫は自然な動作で抱き上げる。クールな表情のまま、だがその腕はしっかりと優しい。
「ただいま。……ママは?」
「お風呂ー」
結は夫の首に腕を回しながら、少し声を落とす。
「ねえパパ……」
「ん?」
「ママね、さいきん、なんか元気ない気がする」
夫の目が、わずかに鋭くなる。
「……どういう意味だ?」
横で控えていた佐川も静かに言う。
「私も、少し気になっておりました。体調が悪いというほどではないのですが……どこか思い詰めたような」
夫の視線がゆっくりと窓の外の夜景に向く。
(誰だ)
胸の奥で、低い炎が揺れる。
「またどこかの婦人に何か言われたのか?」
低い声。
結は首を横に振る。
「ううん。ゆい、知らない。ケンカもしてないよ?」
「私も、そのような話は聞いておりません」
夫は黙る。
(もしも、妻を悪く言う者がいるなら——)
徹底的に調べる。
社交界のつながり、噂の出所、全て洗い出す。
必要ならば、社会的に二度と顔を上げられないようにする。
冷たい決意が胸に落ちる。
だが結の顔を見て、その表情を緩める。
「……大丈夫だ。パパに任せろ」
「ほんと?」
「ああ」
結は安心したように頷いた。
その夜。
リビングの明かりが落ち、静かな時間が流れる。
結は自室で眠り、佐川も控えの部屋へ下がった。
風呂上がりの妻が、髪を乾かしながらリビングに戻る。
ネイビーの部屋着。
まだ少し湿った髪。
夫はソファに腰掛けていた。
「……まだ起きてたのですか?」
「話がある」
妻は少し首をかしげる。
「なにかしら?」
夫はじっと見つめる。
「最近、元気がない」
「え?」
「何かあったのか」
妻は一瞬、目を逸らす。
「別に……たいしたことじゃないです」
「たいしたことじゃない顔じゃない」
「そんな顔してました?」
「ああ」
静かな圧。
妻はため息をつく。
「本当に大したことじゃないの」
「気になる。言え」
少し強い口調。
妻は観念したようにソファに座る。
「……八月に、ウェディングドレスで写真撮るでしょ?」
「ああ」
「だからね、ちょっとダイエットしようと思ってたんです」
「……」
「でもね、減るどころか……増えちゃいました」
一瞬の沈黙。
そして。
「……は?」
夫の眉が動く。
「2キロ」
「……」
「2キロ増えました」
数秒の静寂。
次の瞬間。
「……ははっ」
思わず吹き出す。
妻が目を見開く。
「ちょっと! 真剣に悩んでるの!」
夫は手で口元を押さえる。
「すまん……」
「笑うなんてひどいです」
「いや……もっと深刻なことかと思った」
妻は頬を膨らませる。
「女にとっては深刻なのよ」
「そうか」
夫は真面目な顔に戻る。
「俺は、誰かに何か言われたのかと思った」
「そんなことないよ」
「体調でも崩したのかと」
「違いますー」
夫はゆっくりと妻の手を取る。
「……2キロくらい、増えても構わない」
「よくないですよ。ドレス入らなかったらどうするの」
「入るだろ」
「わからないじゃないですか」
夫は妻の顎を軽く持ち上げ、目を合わせる。
「俺はな」
低い声。
「お前が笑って隣にいれば、それでいい」
妻の目が少し揺れる。
「体重なんてどうでもいい。俺が一緒に写りたいのは、お前の笑顔だ」
「……」
「増えても、減っても、どちらでもいい」
妻は小さく笑う。
「ほんと?」
「ああ」
「また太っても?」
「太らんだろ」
「もし太ったら?」
夫は少しだけ考え、
「それはそれで可愛い」
妻は吹き出す。
「なにそれ」
「事実だ」
少し間。
妻は夫の肩に寄りかかる。
「なんか……バカみたいですね」
「何が」
「2キロでこんなに悩んで」
「悩むくらい、真剣だということだろ」
夫は妻の髪を撫でる。
「だが、安心した」
「ん?」
「もっと重い悩みかと思った」
妻は夫の胸に額を当てる。
「心配してくれたの?」
「ああ」
「そんなに?」
「かなり」
少し沈黙。
夜景が静かに光る。
「……ありがとう」
「礼はいらん」
「でも嬉しいです」
夫は小さく息をつく。
「八月の写真は」
「うん」
「最高の笑顔で写れ」
「努力します」
「努力しなくていい」
「え?」
「自然でいい」
妻は少し照れたように笑う。
「じゃあ……アイス食べよっかな」
「今か?」
「だってもう2キロ増えたんだし」
夫は一瞬黙り、
「……好きにしろ」
二人は小さく笑う。
七月の夜。
タワマン最上階のリビングに、柔らかい空気が戻っていた。




