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雨のち晴れ  作者: ありり
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線香花火の記憶 〜夫の胸の内〜

七月下旬。

リビングに、夕焼けが長く差し込んでいた。


結の幼稚園は夏休み。

結は数日前まで、妻と一緒に妻の実家へ帰省していた。


俺は仕事が立て込んでいて行けなかった。

珍しく、帰宅したときのリビングが広く感じたほどだ。


帰ってきた結は、以前にも増してよく喋るようになっていた。


「パパ! おじいちゃんとね、はなびやったの!」


ソファに座る俺の膝に勢いよく飛び込んできて、興奮気味に話す。


「ぱちぱちって! キラキラしてね、ゆい、いちばん長くできたの!」


妻はキッチンから微笑みながらそれを見ている。


「線香花火、最後まで落ちなかったのよ。得意げだったわ」


結はそれからというもの、毎日せがんだ。


「パパ、はなびしよ? きょうは?」


「まだ七月だ。焦るな」


そう言いながらも、俺の胸の奥では、別の記憶がゆっくりと灯っていた。


――花火。


十歳の夏。


俺は父親を知らない。

生きているのかも分からない。


母と二人で暮らしていた。


母は朝から夜まで働いていた。

不幸だと思ったことはない。

だが、思い出も多くはない。


その少ない記憶のひとつが、花火だ。


母が知り合いからもらってきた、袋入りの安い花火。


テレビで見る大きな打ち上げ花火とは違う。

地味で、小さくて、静かな火。


だが、初めて目の前で見た花火は、俺にとっては奇跡だった。


ぱち、ぱち、と静かに散る光。


「きれいね」


隣で母が言った声を、今でもはっきり覚えている。


その横顔も、花火に照らされた目も。


母は俺が大学に入ってすぐ、亡くなった。


整理した遺品の中に、古い手帳があった。

そこに挟まれていた一枚の写真。


線香花火を持って、夢中で笑っている十歳の俺。


――母は、それを残していた。


胸の奥に、じわりと熱いものが広がる。


その夜。


俺は結を呼んだ。


「結」


「なあに?」


「花火、やりに行くか?」


一瞬の静寂のあと。


「ほんと!? ほんとに!?」


部屋中に響く声。


「ママ! パパがはなびやろうって!」


妻がこちらを見る。

少し驚いたように、でも柔らかく。


「急にどうしたの?」


俺は目を逸らさず言った。


「結がやりたいんだろう。…俺も、やりたくなった」


妻は少しだけ目を細めた。

きっと、何かを察している。


「じゃあ、三人で」


「ああ」


その夜、マンションの下、人気の少ない場所で花火をすることにした。


結はピンクのワンピース。

俺は仕事帰りのままのシャツ姿。

妻は涼しげなワンピース。


しゃがんで火をつける。


最初の火花が弾けた。


ぱち、ぱち、と静かに散る光。


結の顔が一瞬で明るくなる。


「きれい!」


ああ、同じだ。


十歳の俺と同じ顔をしている。


「パパ見て! ゆい、できた!」


結の小さな手に揺れる光。


火の玉がぽとりと落ちるまで、じっと見つめている。


その姿に、胸が締め付けられる。


俺はふと空を見上げた。


母も、あの夜、こんなふうに俺を見ていたのだろうか。


「……きれいね」


隣で妻が言った。


同じ言葉。


時間が、静かに重なる。


俺は思わず言っていた。


「母さんも、そう言ってた」


妻が俺を見る。

何も聞かない。ただ、そっと微笑む。


結が俺の袖を引く。


「パパ、もういっかい!」


「ああ、何本でもやる」


俺は結の花火に火を移した。


火花が弾ける。


今度は、俺がその横顔を見つめる番だ。


この子には、思い出をたくさん残してやりたい。


忘れられない景色を。

胸の奥で何度も灯る火を。


俺は父親を知らない。

だが――


俺は、父親になれた。


結が笑う。


妻が優しく見守る。


小さな線香花火が、最後まで落ちずに揺れている。


夜の闇の中で、静かに、強く。


俺はその火を、最後まで見届けた。


挿絵(By みてみん)

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