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雨のち晴れ  作者: ありり
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長靴と、忘れもの

梅雨の空は、朝からどんよりと重たかった。


天気予報では「昼ごろから本降り」と言っていたけれど、今にも降り出しそうな湿った風が窓を揺らしている。


キッチンでエプロン姿の妻が言った。


「雨が降る前に、ちょっとスーパー行ってくるね。牛乳切らしちゃって」


ソファで新聞を読んでいた夫が顔を上げる。


「車出そうか?」


「ううん、大丈夫。すぐ戻るから。歩きで大丈夫です」


「降りそうだぞ」


「その前に帰りますね」


軽く笑って、妻はバッグを手に玄関へ向かった。


その背中を、娘の結が見送る。


「ママ、いってらっしゃーい!」


「はーい、いってきます」


ドアが閉まる。


——そして、十五分も経たないうちに。


ぽつ。


ぽつ、ぽつ。


やがて、ざあああ、と勢いよく雨が降り始めた。


リビングの窓を打つ雨音に、結が目を丸くする。


「パパ! 雨!」


夫はゆっくり立ち上がり、窓の外を見た。


「……予報、当たったな」


結は不安そうに言う。


「ママ、傘持っていったかな?」


ちょうどそこへ、メイドの佐川が現れた。


「旦那様。奥様ですが……傘はお持ちでないようでした」


夫が眉をひそめる。


「見てたのか」


「玄関でお見送りしておりましたので」


結が慌てて言う。


「ママ、ぬれちゃうよ!」


佐川が一礼する。


「よろしければ、私が傘をお届けに参りましょうか」


そのとき、結の目がきらりと光った。


「ねえパパ! 結、行きたい!」


「ん?」


「新しい長靴、はいていきたい!」


玄関に並んだ、ぴかぴかの黄色い長靴。


昨日買ったばかりだ。


夫は少し考えてから、静かに言う。


「……一緒に行くか?」


結はぱあっと笑う。


「いく! 歩きでいく!」


「車じゃなくていいのか?」


「長靴で歩きたいの!」


佐川が微笑む。


「では、傘をご用意いたします」


夫はスマートフォンを取り出した。


『今から迎えに行く。雨降ってる』


すぐに既読がつき、返信が来る。


『え、ほんと? ありがとう。でも無理しないでね』


夫は短く打つ。


『もう出る』


結は玄関でぴょんぴょん跳ねている。


「はやくはやく!」


「落ち着け」


夫は黒い傘を手に取り、結には小さなピンクの傘を渡した。


「ちゃんと持てるか?」


「もてる!」


外に出ると、しっかりとした雨。


アスファルトが濡れて、街灯がにじんでいる。


結は嬉しそうにくるくる回る。


「わああ! 雨だあ!」


「滑るぞ」


「だいじょうぶ!」


長靴で水たまりを踏む。


ぱしゃん。


「きゃはは!」


夫はクールな顔のまま、しかし口元がわずかに緩む。


「……そんなに楽しいか」


「うん! だって、ぴちゃぴちゃできるもん!」


結は傘の下から夫を見上げる。


「パパ、雨の日すき?」


「……嫌いじゃない」


「ほんと?」


「お前が楽しそうだからな」


結は照れくさそうに笑った。


スーパーに着く頃には、二人とも少し濡れていた。


自動ドアが開き、店内へ。


結がきょろきょろする。


「ママどこ?」


「連絡してみる」


夫がメッセージを送ると、すぐに奥の通路から妻が手を振った。


「こっちこっち!」


結が駆け寄る。


「ママ!」


「わあ、結! 来てくれたの?」


「むかえにきた!」


妻は夫を見る。


「ありがとう。車できたの?」


夫は淡々と答える。


「歩き」


「え、歩き!?」


妻は目を丸くする。


「結が歩きたいって」


「長靴だから!」


誇らしげに足を見せる結。


妻は笑う。


「可愛い……でも、私の傘は?」


一瞬、空気が止まる。


夫と結、同時に固まる。


「……」


「……」


妻が首を傾げる。


「私の傘、持ってきてくれたんじゃないの?」


夫は小さく咳払い。


「……忘れた」


結も真似する。


「わすれた」


妻はしばらく二人を見つめ——


ふっと、穏やかに笑った。


「もう、なにしに来たのよ」


結が慌てる。


「むかえに!」


夫が言う。


「一応な」


妻はくすくす笑いながら言った。


「じゃあさ、せっかくだし。近くの喫茶店でアイスでも食べない?」


結の目がまた輝く。


「アイス!?」


「雨、もうすぐ止む予報なの。少し待てば大丈夫だって」


夫は空を見やる。


「……そうか」


結が両親の手を握る。


「三人でアイスたべよ!」


喫茶店の窓際の席。


外はまだしとしとと雨が降っている。


結はバニラアイスを前に、幸せそう。


「おいしー!」


妻が微笑む。


「迎えに来てくれて嬉しかったよ」


夫はコーヒーを一口飲む。


「濡れると思ったからな」


「傘は忘れたけど?」


「……それは」


結が笑う。


「パパ、わすれんぼ!」


「お前もだろ」


三人の笑い声。


やがて、雨脚が弱まる。


雲の切れ間から、わずかな光。


妻が窓の外を見る。


「ほら、止みそう」


結が立ち上がる。


「また歩いて帰ろ!」


夫は立ち上がり、傘を持つ。


「今度はちゃんと持ってくる......」


妻が夫の腕に軽く触れる。


「ありがとう」


夫は照れ隠しのように視線を逸らす。


「……たまには、こういうのも悪くない」


外に出ると、雨はほとんど止んでいた。


濡れた道路に、三人の影が並ぶ。


結はまた水たまりを踏む。


「また雨ふらないかな!」


妻が笑う。


「毎日は困るかな」


夫は小さく微笑む。


「でも、次は忘れ物なしだ」


結が元気よく言った。


「うん! つぎはママのかさ、わすれない!」


梅雨の午後。


少しだけ特別な、家族の時間だった。

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